枢密顧問官・駐英大使
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第1次桂内閣の総辞職にともない、外相を辞めた小村は、1906年1月9日、枢密顧問官に任じられた。これにより久しぶりに外交の第一線より退くこととなったが、それも長くはなかった。駐英大使だった林董の外相就任にともない、6月6日、小村が後任大使としてイギリスに赴任するよう指示を受けたのである。7月18日に日本を発ち、アメリカを経由して8月16日にロンドンに着任した。 西園寺内閣は、日仏協商や日露協商など、強国となった日本の地盤固めと日露戦後の外交関係の充実に努め、小村も林外相に自らの意見を一度ならず具申した。日仏協商に関しては、フランスはロシアとの露仏同盟を最優先し、そのためにはすべてを犠牲にすることは明らかで、また、日仏間には特に懸案もないことから、その締結には消極的な見解を述べた。一方、日露協商は、将来的に満洲での日本の利権の進展に資するものとなり、ロシアの関心が東欧やバルカン半島方面に向けば日本がそれによって享受する利益も少なくないという見地にもとづいて積極論に立った。ただし、韓国・満洲にかかわる具体的な取り決めを盛り込むことには反対で、ごくだいたいの内容にとどめるべきとの意見であった。 とはいえ、全体的にみれば、小村の影響力は日本政府部内にとどまり、イギリスの世論や政府を動かすには至らなかった。駐英大使としての小村は、イギリスでは人気のない外交官であった。一つには彼の非社交性があり、エドワード7世時代のイギリスが派手なパーティーや舞踏会がさかんであったため、派手なものを嫌う小村はいっそう社交を疎んじるようになった。もう一つは、彼の秘密主義であり、『タイムズ』紙の記者も「コムラの秘密主義には耐え難いものがあった」と嘆いている。小村はまたしても読書に熱中し、今回はイギリスの外交政策に関する書籍を中心に、必要に応じて経済問題や社会問題に関する著述も読んだ。 なお、駐英大使時代の1907年9月、小村は、ポーツマス条約締結など一連の功績が認められて伯爵に陞爵している。
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