枢密顧問官・駐英大使とは? わかりやすく解説

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枢密顧問官・駐英大使

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:17 UTC 版)

小村壽太郎」の記事における「枢密顧問官・駐英大使」の解説

第1次桂内閣総辞職にともない外相辞めた小村は、1906年1月9日枢密顧問官任じられた。これにより久しぶり外交第一線より退くこととなったが、それも長くはなかった。駐英大使だった林董外相就任にともない6月6日小村後任大使としてイギリス赴任するよう指示受けたのである7月18日日本発ちアメリカ経由して8月16日ロンドン着任した西園寺内閣は、日仏協商日露協商など、強国となった日本地盤固め日露戦後外交関係充実努め小村外相に自らの意見一度ならず具申した日仏協商に関しては、フランスロシアとの露仏同盟最優先し、そのためにはすべてを犠牲にすることは明らかで、また、日仏間には特に懸案もないことから、その締結には消極的な見解述べた一方日露協商は、将来的満洲での日本利権進展資するものとなり、ロシア関心東欧バルカン半島方面向けば日本がそれによって享受する利益少なくないという見地もとづいて積極論に立った。ただし、韓国満洲にかかわる具体的な取り決め盛り込むことには反対で、ごくだいたいの内容とどめるべきとの意見であったとはいえ全体的にみれば、小村影響力日本政府部内とどまりイギリス世論政府を動かすには至らなかった。駐英大使としての小村は、イギリスでは人気のない外交官であった一つには彼の社交性があり、エドワード7世時代イギリス派手なパーティー舞踏会がさかんであったため、派手なものを嫌う小村はいっそう社交疎んじるようになったもう一つは、彼の秘密主義であり、『タイムズ』紙の記者も「コムラ秘密主義には耐え難いものがあった」と嘆いている。小村またしても読書熱中し今回イギリス外交政策に関する書籍中心に必要に応じて経済問題社会問題に関する著述読んだ。 なお、駐英大使時代1907年9月小村は、ポーツマス条約締結など一連の功績認められ伯爵に陞爵している。

※この「枢密顧問官・駐英大使」の解説は、「小村壽太郎」の解説の一部です。
「枢密顧問官・駐英大使」を含む「小村壽太郎」の記事については、「小村壽太郎」の概要を参照ください。

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