追号について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:40 UTC 版)
「皇后」、「皇太后」、「太皇太后」の3つの身位の序列は、大宝律令では「1.太皇太后、2.皇太后、3.皇后」の順と定められていたが、皇族身位令制定によって「1.皇后、2.太皇太后、3.皇太后」の順に改められ、諡号・追号には生前帯びていた身位のうち最高のものをつけることになった。 皇后であった彼女の追号は、本来なら「昭憲皇后(しょうけんこうごう)」となるはずだった。だが、崩御時に大正天皇の勅定により贈られた追号は皇族身位令に従っていない「昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)」であった。 こうなった理由は、孝明天皇の正妻であり明治天皇の「実母」(嫡母)だった英照皇太后の追号が「皇太后」だったことから、誤ってそれに倣って命名してしまったものといわれている。英照皇太后は正妻ではあったものの、立后の意向を示した孝明天皇に幕府が反対して皇后には冊立されず、女御・准三宮のみを宣下され、明治天皇の即位に伴って皇太后とされたので、その追号は正確なものだったが、女御宣下と同時に立后された昭憲皇太后にはこれは当てはまらない。また、皇族身位令自体が1910年(明治43年)に制定され、そのわずか4年後に崩御したので、いまだその内容が充分に定着していなかったことも影響していると考えられる。 昭憲皇太后を祭神とする明治神宮は公式ホームページで「宮内大臣が昭憲さまのご追号を皇后に改めないで、『昭憲皇太后』としてそのまま大正天皇に上奏し御裁可となった」「この上奏の時点で間違いが生じました」として当時の宮内大臣の不手際を挙げている(上述の通り、昭憲皇太后が崩御した4月9日に宮内大臣が渡辺千秋から波多野敬直に交代しており、4月11日に崩御の事実が公表された)。 追号は勅裁(天皇の裁定)により定められたものなので、誤りが判明しても「綸言汗の如し」としてこれを改めることが出来ず、現在に至っている。明治神宮は、1920年(大正9年)と1963年(昭和38年)の2度にわたって「昭憲皇后」への改号を当時の宮内省、宮内庁に要請しているが、いずれも却下されている。 皇族身位令は1947年(昭和22年)に廃止されたが、1951年(昭和26年)に崩御した貞明皇后(皇太后節子)は、旧皇族身位令に準じて生前の最高位が皇后だったことを反映した追号を贈られている。また、2000年(平成12年)に崩御した香淳皇后(皇太后良子)も同様に同令に準じて生前の最高位である「皇后」の追号を贈られている。
※この「追号について」の解説は、「昭憲皇太后」の解説の一部です。
「追号について」を含む「昭憲皇太后」の記事については、「昭憲皇太后」の概要を参照ください。
- 追号についてのページへのリンク