昭憲皇太后と明倫歌集
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/05 17:06 UTC 版)
明治の皇后(昭憲皇太后)は、優れた歌詠みであり、また早くから道徳教育に深い関心を寄せてもいた。1876年2月、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)に訓戒的な御歌「みがかずば 玉も鏡も なにかせむ 学びの道も かくこそありけれ」(玉も鏡も磨かねば輝かないように学業に励まねば成らない)を下賜した。この歌は同校の校歌になった。また、翌年宮内省から教訓書「明治孝節録」を出版した。これは皇后の内意により編纂されたものであった。 時代は欧化主義の謳歌に向かった。いわゆる鹿鳴館時代である。一切の伝統を排斥して何事も西洋の風俗に倣う時代であった。男女交際の自由が説かれた。東京女子師範学校は高等師範学校女子部に改まり、学校でダンスのレッスンなどをしていた。一方で、明治政府の欧化政策に反対する天皇側近グループは、伝統主義・儒教主義の立場から徳育強化運動を行った。1882年、内藤耻叟は上奏文を奉呈し、宮中に徳育のための学校を設け、明倫修徳の実をあげることを建言した。彼は水戸藩出身の学者であり、かつ明倫歌集を編纂した吉田尚悳の友人でもあった。皇后は、1887年3月18日、華族女学校(現学習院女子中・高等科)へ訓戒的な御歌「金剛石・水は器」を下賜し、これを東京女子高等師範学校(当時は高等師範学校女子部)へも下賜した。また同年、宮内省蔵版『婦女鑑』を出版した。これは皇后の下命により、華族女学校における倫理道徳の教科書として編纂したものであった。 1890年、書家の小野鵞堂が明倫歌集をカルタに書いて皇后に献上した。皇后はこれを受け取って喜んだ。10月28日の夜、皇后は特に希望して水戸の旧藩校・弘道館に行啓し、弘道館記を見学した。弘道館は明倫歌集の撰集に従事した歌道方が置かれたところであり、また明倫歌集の版木の一つは弘道館蔵版であった。この行啓の2日後、教育勅語が渙発された。教育勅語は道徳の根拠を歴史に求めた。先祖の教えであるから従うべきだという論法であった。明倫歌集もまた、日本固有の道徳が神代以来の伝統であることを神代以来の和歌によって裏付けようとする試みであった。 明倫歌集のカルタを皇后に献上した小野鵞堂は、翌1891年、皇后と関係の深い華族女学校の書道教授に抜擢された。翌1892年、明倫歌集の活字版が刊行された。これに校註を加えた佐佐木信綱は、同書について、日本国民たるもの常にこれを読んで忠君愛国の心を養うべき、めでたい書であると讃えた。また、皇后は1896年5月18日に女子高等師範学校へ行啓して授業の様子などを視察し、特に資金を下賜した。同校はこの下賜金をもって明倫歌集を特製新調し、生徒らに配布した。
※この「昭憲皇太后と明倫歌集」の解説は、「明倫歌集」の解説の一部です。
「昭憲皇太后と明倫歌集」を含む「明倫歌集」の記事については、「明倫歌集」の概要を参照ください。
- 昭憲皇太后と明倫歌集のページへのリンク