昭徳王皇后
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唐の徳宗の皇后。父は秘書監(中国語版)の王遇、母は郕國夫人鄭氏。兄弟には王果がいた。玄宗か粛宗の治世に節王李适の嬪となった。上元2年(761年)に長男の李誦を出産したことで、李适から大きな寵を得た。翌宝応元年(762年)には長女の唐安公主(中国語版)を出産している。大暦14年(779年)に李适が皇帝に即位する(徳宗)と、王氏が后妃の中で皇后に次ぐ淑妃(中国語版)に封じられた。王淑妃の産んだ李誦が立太子されたことで、亡父の王遇は揚州大都督を追贈され、王果は眉州司馬、その他の甥ら二十余人が官職に任じられた。建中4年(783年)に涇原の兵変(中国語版)が起こると、王淑妃は伝国璽を衣帯に結びつけて徳宗と共に都の長安から奉天(現在の陝西省咸陽市乾県)に逃れた。避難中の興元元年3月19日(784年4月13日)に唐安公主に先立たれ、同年内に王淑妃は長安に戻った。貞元2年(786年)に重病に陥ると、11月8日(12月3日)、徳宗より皇后に冊立された。3日後の11月11日(12月6日)、両儀殿において死去。貞元3年3月23日(787年2月29日)に靖陵(中国語版)に葬られた。徳宗が崩じた後の永貞元年10月14日(805年11月8日)、徳宗の眠る崇陵(中国語版)に改葬された。その後百年間、昭宗によって何皇后(中国語版)が冊立されるまで唐では皇后が立てられなかった。
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