王皇后 (唐高宗)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 王皇后 (唐高宗)の意味・解説 

王皇后 (唐高宗)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/22 08:09 UTC 版)

王皇后
の皇后
在位 永徽元年1月6日 - 永徽6年10月13日
650年2月12日 - 655年11月16日

死去 永徽6年(655年
配偶者 高宗
氏族 太原王氏
父親 王仁祐
母親 柳氏
テンプレートを表示

王皇后(おうこうごう)は、中国の高宗李治の廃后。本貫并州祁県

経歴

王仁祐(王秉の孫)と柳氏のあいだの娘として生まれた。美女として知られたが性格は堅苦しかったという。従祖母の同安長公主が太宗に推薦したため、晋王李治の妃となった。643年には李治の立太子にともない皇太子妃となった。649年、太宗の崩御により李治が皇帝に即位。650年、王氏は皇后に立てられた。しかし子に恵まれず、蕭淑妃が高宗の寵愛を受け始めると、蕭淑妃一派との対立が深まって次第に権勢を失っていった。皇后の母方の祖父の柳奭の画策により、652年には劉夫人の子の李忠が皇太子となったものの、蕭淑妃による李素節を皇太子に立てようとする工作は続いた。皇后は苦肉の策として、武照(武則天)を自身の一派の宮女として召し出して高宗に近づけさせ、高宗と蕭淑妃との間を割こうと試みた。

結果、高宗の寵愛を蕭淑妃からそらし、追い落とすことには成功したが、武照が代わって寵愛を得ることとなり、自身を追いつめることになった。655年、武照の娘(安定思公主)を殺したという嫌疑を誣告され、媚蠱を行なったとの悪評も手伝って廃后とされ、庶民に落とされた。この時、捕えられた彼女に高宗が面会したと言われ、彼女は涙を流して身の潔白を訴えたという。

武照が代わって立后されると、罪を着せられ厳しい刑罰を科せられた後、刑死した。以後、一族も追われ、姓も「王」から「蟒」(ウワバミ、蛇の一種)に変えられた。また、蕭淑妃も武后によって捕えられて極刑に処せられ、遺族も姓を「梟」(フクロウ、子が親を食う不孝の鳥とされていた)と変えられた。一説によれば、このとき武照は2人が二度と生き返らないように、四肢を切断した上で「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込んだため、王氏と蕭氏は酒壷の中で数日間泣き叫んだ後に絶命したという。また、蕭氏は死の間際に、武照が生まれ変わったら鼠になれ、自身は猫に生まれ変わって食い殺してやる、と呪いながら死んだといわれ、後年の武照は宮中で猫を飼うのを禁じたといわれる。

伝記資料

  • 旧唐書』巻五十一 列伝第一「高宗廃后王氏伝」
  • 新唐書』巻七十六 列伝第一「王皇后伝」



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王皇后 (唐高宗)」の関連用語

王皇后 (唐高宗)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王皇后 (唐高宗)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの王皇后 (唐高宗) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS