昭徳蕭皇后
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西遼の徳宗の皇后。名は蕭 塔不煙。延慶元年2月5日(1132年2月23日)に徳宗が葉密立(現在の新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州タルバガタイ地区ドルビルジン県)で即位して天祐皇帝を称すると皇后に冊立された。康国10年(1143年)に徳宗が崩じると、その子の仁宗は幼少であったため、徳宗の遺詔により皇后が称制して感天太后と称した。咸清3年(1146年)、狩猟に出かけている最中に金から帰降を勧告しに来た粘割韓奴に遭遇した。粘割韓奴は上国からの使臣であるとして下馬の礼を取らなかったため、感天太后は供の者に命じて無理矢理跪かせた。粘割韓奴は「反賊」と痛罵したため、怒った感天太后は粘割韓奴を殺害させた。咸清7年(1150年)に称制を退いて仁宗が親政することとなり、紹興と改元された。昭徳皇后と感天太后を同一人物とする説、別人とする説の両方がある。
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