条約改正の実現と帝国主義国家への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 02:05 UTC 版)
「明治」の記事における「条約改正の実現と帝国主義国家への道」の解説
1905年(明治38年)、韓国統監府初代統監には伊藤博文が任命されたが、1908年(明治41年)に辞任した。また、1906年(明治39年)のポーツマス条約で獲得した遼東半島南部(関東州)および長春以南の東清鉄道に対し、それぞれ関東都督府、南満州鉄道株式会社(満鉄)が設置された。その後1909年(明治42年)7月、第2次桂内閣が韓国併合を閣議決定、10月26日に伊藤はロシアとの会談を行うため渡満したが、ハルビンに到着した際に大韓帝国の独立運動家安重根から撃たれて暗殺された。1910年(明治43年)には日韓併合条約を結んで大韓帝国を併合し、ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がった。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは諸外国にも反響を与えた。 1911年(明治44年)、日本はアメリカ合衆国と新しい日米通商航海条約を締結、イギリス、ドイツ、フランスおよびイタリアとも同内容の条約を締結した。外務大臣小村壽太郎は関税自主権の全面回復に成功し、これにより、かつて江戸幕府の政権時に西洋列強と結んだ不平等条約を対等な国家間条約に改善する条約改正の主要な部分が完了、日本は長年の課題を克服し、名実ともに西欧諸国と対等な国際関係を結ぶこととなった。嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後に目指した西欧列強と並ぶ近代国家作りは一応達成された。 その後、第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、日本は1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加、明治維新から約50年という速さで列強国の一つに数えられることになった。
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