条約改正を目指して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 16:48 UTC 版)
1927年(民国16年)9月、南京の国民政府において外交部長として復帰する。同年11月には、不平等条約撤廃を諸国に求める宣言を発した。以後、不平等条約撤廃の外交交渉の努力が、後任の外交部長たちによってなされることになる。 1928年(民国17年)初めに、伍朝枢は外交部長を辞任し、欧米各国を視察した。同年7月、伍朝枢は国民政府の全権代表に任じられ、アメリカと条約改正交渉を行う。同年、駐米大使に任じられ、さらなるアメリカとの交渉の末に、新たな条約を結んだ。しかし、関税自主権の完全なる回復はならず、領事裁判権撤廃の要求も拒絶されている。なお、1931年(民国20年)5月に、ミズーリ大学から法学博士を贈呈された。 1931年(民国20年)4月に、胡漢民が蔣介石により軟禁され、汪兆銘・孫科らが広州で非常会議を開催する。伍朝枢も6月に帰国して、広州側の広東省政府主席兼瓊崖特別行政区長官に任命された。同年10月に、両派の対立が収束すると、12月に伍朝枢は司法院院長に任命された。しかし、1932年(民国21年)5月には辞任している。その後も、政治活動に精彩を欠き、まもなく完全に政界から引退した。 1934年(民国23年)1月3日、香港で病没。享年48(満46歳)。
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