条約改正への奮闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/24 15:03 UTC 版)
「フレデリック・マーシャル」の記事における「条約改正への奮闘」の解説
1873年(明治6年)8月に米国との間で締結されていた日米郵便交換条約は翌1874年4月18日に批准交換されたが、イギリス・フランス両国は、日本国内の諸制度の整備の遅れから、日本の郵便主権を認めようとしなかった。鮫島は病気療養中で南仏トゥーロンに滞在中であったが、マーシャルは渡英して第2次ディズレーリ(ビーコンズフィールド)内閣の外相ダービー伯と非公式に会談、英国も米国と同様に日本と郵便条約を締結し、また関税自主権を認めるのが適当であると主張したが、英国側の不信感をぬぐうことはできず、条約締結には至らなかった(フランスもこれにならい、10月に郵便条約調印拒否を正式に回答した)。 この後、同年からマーシャルは鮫島とともに日本の外交官へ向けた外交慣習やマナーなどを説明した手引書の作成に尽力。全文英語で書かれた『Diplomatic Guide』(邦題は鮫島が「外国交法案内」と命名)として結実した(印刷はブラックウッド社が請け負った)。病身の鮫島が療養のため、できたばかりの著書を携えて一時帰国すると、駐英公使上野景範との間にパイプを築き、さらなる情報活動を進めた。1876年(明治9年)には寺島宗則外務卿が主導する条約改正への動きが始まり、マーシャルも上野の命により、パリ日本公使館を拠点に情報活動を再開。特に対日本政策で協調的な方針をとろうとする英仏両国を分断することを画策した。この企ては、日本における外国人の銃猟規則違反に伴う罰金の支払先についてフランス政府を説得し、英国外務省の方針と異なる対応をとらせるなど、ある程度の成功を見た。翌年以降も英仏間を往復し、駐仏ドイツ大使ホーエンローエ侯爵や、フランス外務大臣デュカス公爵とも親交を深めた。これらの交渉は1878年(明治11年)の吉田・エヴァーツ条約として結実するが、駐日英国公使パークスらの反対により、発効には至らなかった。しかし、これらの功績により同年日本政府より、勲四等旭日章を授与される。
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