条約改正と第三次日英同盟
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「小村壽太郎」の記事における「条約改正と第三次日英同盟」の解説
「条約改正#小村壽太郎と税権の回復」および「日英同盟#第三次同盟」も参照 この時期の日英関係は、日露関係の改善などもあって、同盟の有用性は以前よりも低下したと考えられるなど転機をむかえていた。しかし、小村はさまざまな手を打って日英同盟関係の維持に意を注いだ。まず、親英派として知られる加藤高明を駐英大使とし、次いで友好を盛り上げるために日英博覧会を開催した。博覧会は1910年5月14日から10月29日にかけてロンドンで開かれ、好評を博した。 日英関係において、小村が最も心を砕いたのが条約改正問題であった。1910年3月以降、関税自主権の完全回復を目指して日英通商航海条約の改定を協議していたが、協定関税制度の撤廃を求める日本に対し、イギリスはこれに反対し、難航していた。小村は、この件ではイギリス相手であっても妥協しないことを、2度目の外相就任時より表明していた。あくまで対等な条約を求めるのが小村の持論だったのである。加藤高明は交渉をまとめるために小村に譲歩を提案したが、小村はそれを拒否した。 小村は結局、交渉を優先すべき相手国を変えることで解決した。相手に選んだのはアメリカであった。ノックス国務長官の満洲鉄道中立化案は、確かに日露両国の反対により頓挫したとはいえ、必ずしも日米関係の悪化を意味するわけではなかった。ノックスはむしろ、これ以上の日米関係の悪化を怖れて日本の意向を以前よりも考慮するようになっていた。小村もまた、清国への英仏独の借款団にアメリカが加わることに反対しなかった。小村は日本の権益への過度な介入に反対だっただけなのであり、満洲への外国資本の導入にはむしろ賛成していたのである。小村もまた、アメリカとの関係調整に意を用いた。 日米通商航海条約改定交渉は1910年10月19日より始まった。交渉は予想外に順調で、1911年2月21日には新条約が調印された。これにより、幕末以来、日本人にとって悲願であった不平等条約の完全な改正が達成された。日本は対米移民の制限を定めた日米紳士協定の維持を約束していた。アメリカとの間で関税自主権が回復されると、他国との条約改正問題も解決の方向性がみえてきた。小村は、イギリスが重視する輸出品に限って協定関税を残す代わりに日本のいくつかの輸出品が無税になることで折り合いをつけ、4月3日、新日英通商航海条約を結んだ。同年中に、フランス、ドイツなど他の列強との間でも新通商航海条約が結ばれた。 これより先、イギリスのエドワード・グレイ外相は、1910年9月26日、加藤駐英大使に日英同盟の改定について意向を尋ねている。当時、英米両国では、紛争を仲裁機関に委ねる仲裁裁判条約の締結が検討されていた。そこでグレイは、日本に対して、仲裁裁判条約に違背しないように日英同盟を改定するか、あるいは英米の仲裁裁判条約に日本も加入するか、どちらかを選ぶよう示唆した。英米間では、国家間対立を平和的手段で解決することを定めた仲裁裁判条約を結んでいたため戦争はできない状態である。条約違反に陥らないためには、仮に日米間で戦争が起きた場合にイギリスが巻き込まれないためには同盟を改定するか日本も同条約に加入するほかなかったのである。小村は、仲裁裁判条約が日本に不利な判決を出す傾向を持っているとして批判的立場をとっていた。結局、小村は1911年1月17日、改定の方を選択する旨答えた。4月5日、日英同盟改定案は閣議決定された。 イギリスがアメリカと仲裁裁判条約を結ぶ以上、アメリカを対象に同盟が適用されないのは当然であった。しかし、仮にアメリカが他の国と同盟を結んだとき、同盟が発動されるか否かについては意見が分かれた。小村は、発動されるよう強く求めたが、グレイは譲らず、加藤はイギリス側に立って小村の主張を批判した。総理大臣の桂は、この時、同盟を発動しないことに最終的に同意し、小村もやむなく受け入れた。7月13日、第三次日英同盟条約が調印された。 なお、小村は1911年4月22日、韓国併合の功などにより侯爵に陞爵している。
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