条約改正の経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:25 UTC 版)
条約改正の概略をまとめると下表のようになる。 年外交責任者交渉内容経過と結果関連事項1872(明治5) 岩倉具視(右大臣) 改正交渉の打診 米欧を巡回、改正交渉失敗。文物や制度を視察して1873年に帰国 *明治六年政変(1873) 1873(明治6)〜1879 寺島宗則(外務卿) 関税自主権の回復 日本の税権を認める「日米関税改定約書」(吉田・エヴァーツ条約)を締結(1878)→イギリス・ドイツが反対→条約締結が無効となる *日朝修好条規調印(1876)*ハートレー事件(1877)*ヘスペリア号事件(1879) 1879(明治12)〜1887 井上馨(外務卿・第1次伊藤内閣外相) 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 条約改正予議会の開催(1882)→条約改正会議の開催(1886)→内地雑居と裁判所への外国人判事任用に対し民権派の反対(→三大事件建白運動へ)・政府部内でも批判(ボアソナード・谷干城ら)、欧化政策に対する国民世論の反感→交渉中止、井上外相辞任 *鹿鳴館落成(1883)*内閣制度創設(1885)*ノルマントン号事件(1886)*保安条例公布(1887) 1888(明治21)〜1889 大隈重信(黒田内閣外相) 領事裁判権の撤廃(各国と個別交渉) アメリカと新条約を調印。ドイツ・ロシアとも調印(発効せず)→イギリス誌『タイムズ』が大審院に外国人判事を任用する大隈改正草案を掲載(1889)→日本国内で違憲論おこる→大隈遭難事件(大隈外相が玄洋社前社員の爆弾テロで負傷)、条約改正交渉中止 *日墨修好通商条約調印(1888)*大日本帝国憲法発布(1889)*(大隈遭難事件後の三条暫定内閣において)「「将来外交之政略」起草(1889) 1890(明治23)〜1891 青木周蔵(第1次山縣・第1次松方内閣外相) 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 「青木覚書」の策定→イギリスと対等交渉開始、イギリス側も対日外交方針を転換(ロシアの南下政策に対抗するため対日関係を重視)→法権回復・税権一部回復にイギリスの同意を確認→1891年のロシア皇太子暗殺未遂事件(大津事件)により青木外相が引責辞任(榎本外相が引き継ぐものの本格化せず) *第1回衆議院議員総選挙、帝国議会開設(1890)*裁判所構成法・治罪法・民法・民事訴訟法・商法等公布(1890)*ロシア、シベリア鉄道起工(1891) 1892(明治25) 榎本武揚(第1次松方内閣外相) 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 青木改正案を支持し、条約改正交渉を継続するが法典論争の過熱化、品川弥二郎の選挙干渉にともなう議会の紛糾などのため不調に終わる *第2回衆議院議員総選挙(1892)*金子堅太郎、国際公法会への参加許可を内申、同会に出席する(1892) 1894(明治27) 陸奥宗光(第2次伊藤内閣外相) 領事裁判権の撤廃と関税自主権の一部回復 青木元外相を駐英公使として派遣、交渉にあたらせる→日英通商航海条約調印(領事裁判権撤廃・対等の最恵国待遇・関税自主権の一部回復)→他の14か国とも同内容の条約を調印 *日清戦争(1894-95)*下関条約(1895) 1899(明治32) 青木周蔵(第2次山縣内閣外相) - 陸奥改正条約(1894年調印)の発効(有効期限は12年間)、内地雑居の開始 *北清事変(1900) 1911(明治44) 小村壽太郎(第2次桂内閣外相) 関税自主権の完全回復 改正条約満期にともない、関税自主権回復をめざす→新日米通商航海条約調印→列国とも改正調印(条約改正の最終的決着を達成) *日露戦争(1904-05)*韓国併合(1910) 以下、主として外交担当者ごとに節を設け、それぞれの条約改正交渉の中身や経緯、その結果について詳述する。
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