第5回衆議院議員総選挙
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内閣 | 第3次伊藤内閣 | ||
解散日 | 1897年(明治30年)12月25日 | ||
公示日 | 1898年(明治31年)1月21日 | ||
投票日 | 1898年(明治31年)3月15日 | ||
選挙制度 | 小選挙区制 | ||
改選数 |
300( | ||
議席内訳 | |||
有権者 | 直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性日本国民 | ||
有権者数 | 45万2637人 | ||
投票率 |
87.50%(![]() | ||
各党別勢力 | |||
党順 | 第1党 | 第2党 | 第3党 |
画像 |
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党色 | |||
党名 | 自由党 | 進歩党 | 国民協会 |
党首 | 板垣退助 | 大隈重信 | 品川弥二郎 |
前回選挙 | 107 | 新党 | 32 |
選挙前議席 | 98 | 91 | 26 |
獲得議席 | 105 | 104 | 29 |
増減 |
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党順 | 第4党 | 第5党 | |
画像 |
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党色 | |||
党名 | 山下倶楽部 | 同志倶楽部 | |
党首 | 不明 | 不明 | |
前回選挙 | 新党 | 新党 | |
選挙前議席 | 54 | 14 | |
獲得議席 | 21 | 13 | |
増減 |
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< 1894年9月1898年8月 > | |||
第5回衆議院議員総選挙(だい5かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1898年(明治31年)3月15日に行われた日本の行われた帝国議会(衆議院)議員の総選挙である。
概説
第2次松方内閣は当初大隈重信の進歩党と連立を組んでいたが、財政難解決の手法を巡って対立。これがきっかけとなり進歩党内で倒閣の機運が発生し1897年10月31日に連携の断絶を決議する。これを受けて11月6日には進歩党の閣僚は全員辞任。内閣は議会での足場を失うこととなった。内閣は板垣退助の自由党に接近し連立を組むことを模索するが自由党内の反対意見もあって失敗する。12月24日に召集された第11回帝国議会において内閣不信任案が提出されると首相の松方は翌25日に衆議院を解散した。しかし、 選挙後の政権運営の方策が全く見出せなかった松方はその日の内に辞任してしまう。なお、衆議院を解散してそのまま内閣総辞職を行ったのは大日本帝国憲法下においても日本国憲法下においてもこの時だけであった。後継の首相には伊藤博文が選ばれ第3次伊藤内閣が成立する。伊藤は自由党及び進歩党との大連立を計画していたが当時副総理格だった内相ポストを巡って自由党と進歩党が対立したため断念することとなったため結局議会に支持基盤を持たない状態で組閣し、総選挙の結果を待った。選挙が行われると自由党・進歩党合わせて役7割の議席を獲得する結果となった。伊藤は第1党となった板垣の自由党との連立を考えたが閣内の反対に遭い断念。選挙後に召集された第12回帝国議会で財政難解決の方法をめぐって政党と内閣は対立。結局内閣は総選挙からわずか3ヶ月で再度衆議院を解散することになる(第6回衆議院議員総選挙)。
選挙データ
内閣
- 第3次伊藤博文内閣(第7代)
解散日
投票日
改選数
- 300
選挙制度
- 小選挙区制(一部2人区制)
- 記名投票
- 1人区(単記投票) ‐ 214
- 2人区(連記投票) ‐ 43
- 制限投票
- 直接国税15円以上納税の満25歳以上の男性
- 有権者 452,637
選挙結果
投票率
- 87.50% (前回比
2.66%)
党派別獲得議席
この選挙で当選
立憲自由党 進歩党 国民協会 山下倶楽部 同志倶楽部 無所属
※神奈川3区は東京府にまたがる選挙区に再編され、東京13区として扱われたため、存在しない。
脚注
関連項目
外部リンク
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