川村惇とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 川村惇の意味・解説 

川村惇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/16 09:50 UTC 版)

川村惇

川村 惇(かわむら じゅん、文久元年12月3日[1]1862年1月2日) - 昭和5年(1930年4月11日)は、ジャーナリスト政治家教育者。子に川村貴一。

経歴

常陸国(現・茨城県)出身。明治16年(1883年慶應義塾を卒業後、富山県師範学校校長兼任女子師範学校校長。明治19年(1886年)の教員集団辞職事件により辞任。

1898年(明治31年)に行われた第5回衆議院議員総選挙に茨城県郡部選出で当選し、憲政会所属(3回当選)。また、『静岡大務新聞』主筆を経て、玄洋社の機関紙『福陵新報』の創刊に携わり初代主筆に就任し、のちに『朝野新聞』主筆兼社長となる。ほか、台湾鉄道常務委員、帝国活動写真株式会社取締役となる。

脚注

  1. ^ 漆崎多四郎『貴衆両院議員名鑑』、1919年、p.6。

参考文献

  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「川村惇」の関連用語

川村惇のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



川村惇のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの川村惇 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS