平林九兵衛 ひらばやし きゅうべい
東京生まれ。品川の素封家鳥山又七の子で、平林家の当主であった伯父の養子となる。嘉永4年(1851)、家督を相続。維新後は、区総代、東京府会議員をつとめる。明治25年(1892)には、衆議院議員に当選。政治家として活躍する一方、資財を投げ打って地元の発展にも尽力した。その功により、33年(1900)紫綬褒章を授けられている。
キーワード | 政治家 |
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- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 温古見聞彙纂 / 平林九兵衛編 平林九兵衛, 明32.10 <YDM23743>
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平林九兵衛
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 04:31 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動平林 九兵衛(久兵衞、ひらばやし くへえ、1837年10月8日(天保8年9月9日[1][2][3]) - 1909年(明治42年)6月14日[3])は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。
経歴
武蔵国荏原郡生まれ。大井村(のち大井町→東京市品川区、現・東京都品川区)戸長、同村会議員、東京府会議員、同常置委員、同郡部会議員となる[2][3]。また、工芸品共進会審査委員、地方衛生会員、荏原郡徴兵参事員、水産伝習所(のち水産講習所→東京水産大学、現・東京海洋大学)創立委員、日本赤十字社東京府委員となる[3]。
1890年の第1回衆議院議員総選挙において東京12区から立憲自由党公認で立候補したが落選[4]。1892年の第2回衆議院議員総選挙では中央交渉会から立候補して当選した[5]。1894年3月の第3回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補したが落選[6]。同年9月の第4回衆議院議員総選挙は不出馬。1898年3月の第5回衆議院議員総選挙では国民協会から立候補して再選した[7]。衆議院議員を2期務め、同年8月の第6回衆議院議員総選挙で帝国党から出馬して落選した[8]。1909年に死去した。
脚注
- ^ 平林九兵衛|近代日本人の肖像
- ^ a b 衆議院編 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』 衆議院事務局、1940年、381頁。NDLJP:1278238。
- ^ a b c d 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』539頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』2頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』8頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』14頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』26頁。
- ^ 『衆議院名鑑 第1回・1890年~第34回・1976年総選挙』31頁。
参考文献
- 平林九兵衛のページへのリンク