岸内閣
岸信介内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:50 UTC 版)
1957年(昭和32年)2月、石橋内閣が石橋湛山首相の病により倒れると第1次岸内閣が組閣された。当選1回ながらも商工省出身で産業界に人脈があることを川島正次郎幹事長に見込まれて椎名は党の経理局長に就任する。椎名が経理局長に就いてからの自民党に対する財界からの献金は、旧来の2億円から10億円まで拡がったと伝えられている。1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙では再び最下位ながらも当選を果たした。1959年(昭和34年)6月に発足した第2次岸内閣 (改造)では当選2回ながらも内閣官房長官に就任した。岸は椎名の起用について、最大の仕事となる新安保条約締結に向けた人選であると説明した。内閣のスポークスマンであったが、記者会見では記者団の質問に対して「細かいことは総理に聞いてくれ」と発言する一方で日米安保条約改定で岸を支えた。1960年(昭和35年)6月、新安保条約の成立を機に岸内閣は退陣する。椎名は後継の総裁として池田勇人を推し、岸派と佐藤派の支持を受けた池田は総裁選に勝利した。
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