岸信介と
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 08:51 UTC 版)
岸信介とは一高、東京帝大時代における同級生で、首席を争った。一高入試では岸の成績はあまり芳しくなかったが、入学直後の試験で一挙に頭角を現し、我妻とも親しくなり、以後、2人は優等生として過ごした。帝大時代、岸と我妻は冬休みになると一緒に伊豆・土肥温泉の旅館「明治館」に籠もって勉強した。ある年、到着早々に我妻が重い風邪をひき、高熱を出した折には、岸が必死になって看病を続けた。明治館の人たちの記憶に、この2人の東大生は長く記憶に残った。 東京裁判が終わり、まだ、岸が巣鴨拘置所に幽閉されていたとき嘉治隆一や三輪寿壮の肝いりで、数名の友人が釈放嘆願書をGHQに提出するが、この際当時東大法学部長であった我妻も、一高以来の友人の一人として署名した。岸は釈放されると、直ちに政界に返り咲き、アッというまに首相の地位に就く。そして、第二次岸内閣は新日米安全保障条約のため、衆議院の会期延長と条約批准案の単独採決を行う。安保闘争が激しさを増す中、1960年6月5日付『朝日新聞』政治面に我妻は、「岸信介君に与える」と題し 今日、君の残された道はだた一つ。それは直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです。…静かな山川の中で、ただ一人無心にウキをながめていたら、巣鴨のときとはまた別な心境の変化を君に与えるだろうと存じます。 との手記を寄稿。岸に即時退陣を訴え、条約批准書交換日である、6月23日、岸内閣は総辞職した。
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