今井久_(内務官僚)とは? わかりやすく解説

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今井久 (内務官僚)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/06 04:22 UTC 版)

今井 久(いまい ひさし、1902年明治35年)7月24日 - 1980年昭和55年)7月25日[1])は、日本の内務警察防衛官僚。官選茨城県知事防衛事務次官

経歴

東京府出身。専売局官吏・今井譲の二男として生まれる。旧制愛知県立第五中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校)、第八高等学校を卒業。1924年11月、高等試験行政科試験に合格。1925年3月、東京帝国大学法学部法律学科(英法)を卒業。同年4月、内務省に入省し岡山県属となり内務部社会課兼地方課勤務となる。同年12月、休職して入営し、1926年11月、陸軍二等計手となり復職[1]

1927年3月、地方警視宮崎県警察部警務課長兼保安課長に就任。以後、神奈川県警察部警務課長、石川県工場監督官、大阪府警察部警務課長、警視庁警視・警務部警務課長、佐賀県書記官警察部長を歴任。1937年8月に応召され1940年1月まで入隊[1]

1940年1月、三重県書記官・警察部長に発令。内務書記官警保局警務課長、同保安課長を経て、1944年7月、茨城県知事に就任。戦時下の対応に尽力[2]1945年4月、防空総本部次長に転出。内務省調査官に異動し、同年10月に退任[1]。同年に退官[3]1946年9月から1951年10月まで公職追放となる[1]1949年、茨城石炭販売社長に就任[2]

1955年、内閣行政審議会委員となる[2]1956年5月、調達庁長官に就任[1]

1957年6月、防衛庁次長、同年8月、防衛事務次官となり1960年11月まで在任[1]安保闘争に対して自衛隊の治安出動が検討された際には反対を主張し、防衛庁長官赤城宗徳に容れられる[4]

1974年10月から死去するまで国家公安委員を務めた[1]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 『日本近現代人物履歴事典』67頁。
  2. ^ a b c 『新編日本の歴代知事』255頁。
  3. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』249頁。
  4. ^ 【安保改定の真実(8)完】岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…”. 産経ニュース (2015年9月23日). 2019年1月19日閲覧。

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。





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