渡辺徹 (政治家)とは? わかりやすく解説

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渡辺徹 (政治家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/10 14:54 UTC 版)

渡辺徹
わたなべ とおる
生年月日 1841年9月15日
出生地 日本 越前国南条郡武生
(現・福井県越前市
没年月日 (1913-10-19) 1913年10月19日(72歳没)
所属政党 近畿倶楽部

選挙区 兵庫県第2選挙区
当選回数 1回
在任期間 1892年 - 1892年12月1日




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渡辺 徹(渡邉 徹、わたなべ とおる、1841年9月15日天保12年8月1日[1][注釈 1] - 1913年大正2年)10月19日[2])は、幕末勤王家、明治期の内務官僚政治家実業家茨城県参事御影町長衆議院議員。幼名・政吉、後左衛門、又衛[3]

経歴

越前国南条郡武生で、福井藩越前府中領主本多家家臣・渡辺良右衛門の三男として生まれ、のち大坂国学者・渡辺資政の養子となる。剣鎗銃砲の術を修めた。幕末の国事に奔走し、錦小路頼徳に仕え、七卿落ちの際にも随行し、錦小路死去後に東久世通禧に仕えた[4][5]

明治維新後、神奈川府巡察補に就任。以後、同巡察、神奈川県少参事、五條県大参事甲府県権大参事、租税寮七等出仕、秋田県参事などを歴任[2]

明治5年8月25日1872年9月27日)茨城県参事に就任。県庁租税課に開産係を設置し農政を所管させ、水戸藩士族に開墾を、水戸の富商に会社設立などを勧め、また、水戸に種痘局を置いた。1873年2月22日に依願免本官となる。また同時に理由は不明であるが位記返上を命ぜられた。一年半を経て長崎県参事として復帰し、1877年1月に退官した[4]。その後、兵庫県武庫郡長菟原郡長、飾東郡長兼飾西郡長、明石郡長、御影町長などを歴任[2]

さらに醸造業を起こし、灘酒家銀行頭取、全国酒造業者組合連合会長、神戸貯蓄銀行頭取、日本酒造火災保険 (株) 社長などを務めた[2]

1892年2月、第2回衆議院議員総選挙に兵庫県第二区から出馬し当選したが、同年12月1日に議員を辞職した[2][6]

脚注

注釈

  1. ^ 『人事興信録 3版』(人事興信所、1911年)わ45頁では2月10日。

出典

  1. ^ 広田三郎『実業人傑伝 第5巻』実業人傑伝編輯所、1898年、第4編110頁。
  2. ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』727頁。
  3. ^ 『新編日本の歴代知事』235頁。
  4. ^ a b 『茨城県政と歴代知事』24-25頁。
  5. ^ 「渡辺徹特旨叙位ノ件」
  6. ^ 『官報』第2830号、明治25年12月2日。

参考文献





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