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内藤寛一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/26 03:21 UTC 版)

ないとう かんいち
内藤 寛一
昭南市長の時に撮影
生誕 1897年明治30年)9月
日本 愛媛県
死没 没年不詳
出身校 法学部政治学科
職業 官僚
内藤豊治(父)

内藤 寛一(ないとう かんいち、1897年明治30年)9月[1] - 没年不詳)は、日本の内務警察厚生官僚。官選茨城県知事陸軍司政長官昭南市長(シンガポール)。

経歴

愛媛県出身。内藤豊治の二男として生まれる[1]第一高等学校卒業[2]1921年11月、高等試験行政科試験に合格。1922年東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し奈良県属となる[1][2]

以後、奈良県警部三重県理事官・工場監督官、長野県書記官・学務部長和歌山県書記官・警察部長、内務省書記官・警保局図書課長、同大臣官房会計課長厚生省書記官・衛生局指導課長、同大臣官房会計課長、同職業部長、同職業局長などを歴任[1][3][4]

1941年3月26日、茨城県知事に就任[3]。同年7月の風水害の復旧に尽力し、霞ケ浦北浦洪水水位低下工事の実現を図った。また戦時体制の整備に取り組む[4]1942年10月7日、陸軍司政長官に発令され[5]、同年11月、南方軍軍政総監部交通部長に就任。1943年4月1日、同産業部長に異動。同年7月19日、昭南市長に転じ終戦を迎えた[6]

戦後公職追放となった[2]

著作

  • 『戦時経済と労務統制』〈戦時経済国策体系:第3巻〉、東亜政経社、1942年。

栄典

勲章

脚注

  1. ^ a b c d 『人事興信録』第13版 下、ナ8頁。
  2. ^ a b c 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』231頁。
  3. ^ a b 『新編日本の歴代知事』253頁。
  4. ^ a b 『茨城県政と歴代知事 : 戦前45名の人物像』210-215頁。
  5. ^ 『官報』第4725号、昭和17年10月8日。
  6. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』136-137頁。
  7. ^ 『官報』第4506号「叙任及辞令」1942年1月19日。

参考文献

  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
  • 森田美比『茨城県政と歴代知事 : 戦前45名の人物像』暁印書館、1991年。
  • 人事興信所編『人事興信録』第13版 下、1941年。



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