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大橋喜久三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 13:18 UTC 版)

おおはし きくぞう

大橋 喜久三
生誕 1892年8月6日
日本岡山県都窪郡倉敷町
(現・倉敷市
死没 1990年12月24日(98歳没)
日本東京都文京区
出身校 東京帝国大学農科大学
肩書き 理化工業取締役
日本油脂取締役
ミサワホーム顧問
第12代色材協会会長
日本塗料工業会会長
配偶者 はる子(妻)
  • 良平(父)
  • 嘉與(母)
受賞 藍綬褒章(1966年)
勲四等旭日小綬章(1967年)
日本塗料工業会日本塗料賞(1968年)
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大橋 喜久三(おおはし きくぞう、1892年明治25年)8月6日[1] - 1990年平成2年)12月24日[1])は、実業家である。日本油脂取締役[1]ミサワホーム創業顧問[2][3]色材協会会長[4]を務めた。岡山県倉敷市出身[5]

経歴

生い立ち

1892年(明治25年)、岡山県都窪郡倉敷町(現:倉敷市)の名家である大橋良平の三男として生れる[5][6]。その後、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)へ進学した[7][5]。同期には、丸善石油社長になる森寿五郎日窒コンツェルン首脳陣となる笹田直二郎がいた。その後、1911年(明治44年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する[8][5]

1915年大正4年)に同校を卒業し[9]1916年(大正5年)東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学する[10]。同大学を1919年(大正8年)7月、26歳で卒業し[11]日本窒素肥料へ就職する[12]

就職後

日窒へ就職後、熊本県八代郡鏡町にある鏡工場へ技師として配属となる[12][13]。1年半程度で同社を退職し、28歳のとき東京にある日本ウルシ工業の取締役として転職する[5]。その後、1921年(大正10年)11月、理化工業の取締役として入社し[13]、更に、1923年(大正13年)8月、不二塗料の川崎工場長を兼務する[13]。また、1927年昭和2年)12月、35歳で同郷の星島二郎が取締役を務める株式会社甲石の取締役にもなった[14]

その後も、昭和藍素工業取締役[15]や日本食品工業の課長[16]等、数多くの職場を兼務しながら、1937年(昭和12年)に日本油脂へ入社し査業課長となる[17]1939年(昭和14年)には、川崎塗料工場の工場長となり[18]、兄の大橋退治が日本油脂の取締役常務・油化部長となると、1942年(昭和17年)50歳のとき同社の調査役監事に就任、社長直属となった[19][20]

日本油脂の社名が日産化学工業へ変更となり、第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)53歳のときに、同社取締役・塗料部長となる[21]。1948年(昭和23年)には、第12代色材協会会長となり、2年間務めた[4]。1949年(昭和24年)には、常務取締役へ就任する[22]。1956年(昭和31年)には、63歳で日本塗料工業会会長となり[23]、兄である大橋退治が日産化学から再度、日本油脂へ社名変更した会社の社長(同社会長は苫米地義三)となると、同社のNo.2として兄を経営面で支えた[24]。1958年(昭和33年)65歳で、同社の顧問・相談役となり、経営の一線から退き[25]、日本塗料工業会会長職も引退する[26]

引退後も、東洋製罐の監査役[27]、ミサワホーム創業時の顧問[28][29]など、多数の役職を務めたが、1990年(平成2年)12月24日、午後1時28分に老衰のため98歳で死去[30]

受賞歴

家族

脚注

  1. ^ a b c d e f 日外アソシエーツ現代人物情報『大橋喜久三』
  2. ^ 住宅生産振興財団『5年のあゆみ-創立5周年を迎えるまで-』44頁
  3. ^ 三沢千代治氏(7) 大量受注も苦情が相次ぐ”. 日本経済新聞 (2021年5月12日). 2025年6月29日閲覧。
  4. ^ a b 歴代会長 - 一般社団法人 色材協会”. shikizai.org (2022年2月19日). 2025年6月28日閲覧。
  5. ^ a b c d e f 岡山県都窪郡案内誌 12頁, 岡本芳衛 編, 都窪郡案内誌編纂会, 大正13年
  6. ^ 大橋退治 (第8版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2025年6月28日閲覧。
  7. ^ 第六高等学校一覧 自大正2至3年 205頁, 岡山縣高梁 大橋喜久三
  8. ^ 第六高等学校一覧 明治44-45年 187頁
  9. ^ 第六高等学校一覧 自大正4至5年 243頁, 第十三回卒業生 大橋喜久三
  10. ^ 東京帝国大学一覧 從大正5年 至大正6年 65頁
  11. ^ 東京帝国大学卒業生氏名録 326頁
  12. ^ a b 帝国大学出身録 337頁, 原田登 編, 大正11年
  13. ^ a b c d 大日本人物史 昭和5年度版 増訂第3版 77頁, 新田宗盛 著, 帝国時事通信社, 昭和4年
  14. ^ 官報 1928年03月28日 741頁
  15. ^ 塗料年鑑 昭和9年版 140頁, 塗工之魁新聞社 編, 昭和7至14年
  16. ^ a b c d e f 大衆人事録 [全国篇] 12版
  17. ^ ポケツト会社職員録 昭和14年版(第4回) 632頁, ダイヤモンド社 [編], 昭和13年
  18. ^ ポケツト会社職員録 昭和15年版(第5回) 681頁, ダイヤモンド社, 昭和14年
  19. ^ ポケツト会社職員録 昭和18年版(第8回) 711頁, ダイヤモンド社 編, 昭和16-17年
  20. ^ 岡山県人 第12巻11号(通巻120号), 全国岡山県人社, 1942-10
  21. ^ 全国官庁団体銀行会社職員録 2~14号 18頁, ジャパン・クレヂット・ビューロー, 1946.2-1947.7
  22. ^ ダイヤモンド会社要覧 昭和25年版, ダイヤモンド社 編, 1949年
  23. ^ 日化協月報 9(6)(97), 日本化学工業協会, 1956-06
  24. ^ 全国主要会社ダイジェスト 昭和32年上期版, 野田経済研究所 編 野田経済研究所, 1957
  25. ^ 大衆人事録 第20版 東京篇, 帝国秘密探偵社 編, 1958
  26. ^ 日化協月報 11(6)(120), 日本化学工業協会, 1958-06
  27. ^ 帝国銀行・会社要録 第47版, 帝国興信所, 昭和41年
  28. ^ 成長する日本の異色企業 2, 伊藤智力 著 リサーチ出版, 1972
  29. ^ ミサワホーム : 木質プレハブ界の王者 (ザ・会社シリーズ ; 50) , 和田晃一 著 朝日ソノラマ, 1980.9
  30. ^ フードケミカル 7(2)(70), 食品化学新聞社, 1991-02
  31. ^ a b 大橋良平 (第4版) - 『人事興信録』データベース”. jahis.law.nagoya-u.ac.jp. 2025年6月28日閲覧。
  32. ^ 官報 1919年05月12日
  33. ^ a b 岡山県都窪郡案内誌 26頁, 岡本芳衛 編, 都窪郡案内誌編纂会, 大正13年
  34. ^ 実業の世界 24(7);七月號創刊20周年記念第二記念號, 実業之世界社, 1927-07-01
  35. ^ 青年と処女の叫び 改造と向上, 天野藤男・清子 著 親愛社, 大正9年
  36. ^ 大原孫三郎伝, 大原孫三郎伝刊行会 編, 1983.12
  37. ^ 岡山県都窪郡案内誌 21頁, 岡本芳衛 編, 都窪郡案内誌編纂会, 大正13年
  38. ^ 昭和物故人名録 : 昭和元年~54年, 日外アソシエーツ 編, 1983.7



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