稲本陽州
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 16:01 UTC 版)
いなもと ようしゅう
稲本 陽州
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生誕 | 1864年![]() (現・岡山県井原市) |
死没 | 1947年 |
国籍 | ![]() |
職業 | 教育者・詩人 |
子供 | 稲本白鵞 |
稲本 陽州(いなもと ようしゅう、1864年(元治元年) - 1947年(昭和23年))は、教育者であり詩文作家である。現在の岡山県井原市出身。
経歴
生い立ち
1864年(元治元年)備中国後月郡山野上村(現在の岡山県井原市)で生れる。幼い頃から岡山県議会議員の三村政太郎に漢学を学ぶ。地元の精徳尋常小学校を卒業し、教師証明書を受け15歳で精徳小学校の助教となった[1]。1886年(明治19年)には、日本の詩文作家における青年大家に挙げられ[2]、全国でも名が知られていた。
漢文教諭として
1902年(明治35年)に地元から近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)の漢文の教諭となる。その後は教員を退職するまでずっと高梁中学の教員であった[1]。陽州は、漢文詩でその名をしられ、比較としてその名を使われているほどであった[3]。地方文芸に貢献し、特に漢文詩の世界では、関西に稲本陽洲あり、九州に宮崎来城ありとの評判であった[1]。子には、教育者であり書道家でもあった稲本白鵞がいる。
1947年(昭和23年)に死去した。
脚注
- ^ a b c いばら歴史館・偉人『稲本陽州』
- ^ 大日本大家青年詩文作家一覧, 間橋篁渓 編, 間橋円之助, 明19.10
- ^ 地方文芸史 p.10, 小木曽旭晃 著, 大衆書房, 昭14年
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