横田誠一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/27 13:24 UTC 版)
よこた せいいちろう
横田誠一郎
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生誕 | 1881年9月![]() (現・新見市) |
死没 | 1920年4月3日(38歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 外交官 |
栄誉 | 勲四等瑞宝章 |
横田 誠一郎(よこた せいいちろう、1881年(明治14年)9月[1] - 1920年(大正9年)4月3日[2])は、日本の外務官僚。岡山県新見市出身[3]。
経歴
生い立ち
1881年(明治14年)岡山県哲多郡矢神村(現:新見市)に生まれる[3]。地元に近い旧制・高梁中学(現・岡山県立高梁高等学校)を経て、1901年(明治34年)第六高等学校に進学[1]、その後、1904年(明治37年)7月に同校卒業、同年に東京帝国大学法科大学政治学科へ進学した[4]。1908年(明治41年)7月、26歳で同大学を卒業した。
国家公務員として
大学を卒業した翌年の1909年(明治42年)文官高等試験外交科(外交官及領事館試験)に合格した。外務省の同期には、徳川宗家17代当主の徳川家正、後に文部大臣になる岡部長景がいた。その後、初任地として中国の天津官補へ配属された。その後、外務省政務局の第二課長へ昇進したが、在任中の1920年(大正9年)4月3日に病没した[5]。後日、国より勲四等瑞宝章が授与された[6]。
脚注
- ^ a b 第六高等学校一覧 明治33-35年 p.134 横田誠一郎 高梁
- ^ 『官報』第2300号、大正9年4月6日。
- ^ a b 陰陽八郡郡勢一斑 49頁, 﨏雨村 編, 陰陽八郡時報社, 大正6年
- ^ 第六高等学校一覧 明治37-39年 p.149 横田誠一郎 東大政治科
- ^ “文官高等試験合格者一覧”. kitabatake.world.coocan.jp. 2024年12月7日閲覧。
- ^ 官報 1920年09月08日 197頁
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