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横屋潤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/28 15:58 UTC 版)

よこや じゅん

横屋 潤
生誕 1884年8月5日
日本岡山県上房郡高梁町
(現・高梁市
死没 1950年(66歳没)
日本東京都新宿区
国籍 日本
出身校 東京帝国大学農学部獣医学科
職業 農林官僚宮内官僚
身長 173 cm (5 ft 8 in)
体重 98.8 kg (218 lb)
肩書き 東京競馬場長
日本競馬会常務理事
配偶者 矩子(川島利就の長女)
砂(後妻)
子供 陸子(長女)
一郎(長男)
三郎(次男)
五郎(三男)
英子(次女)
節子(三女)
  • 横屋善次(父)
親戚 横山昌次郎(甥)
家族 横屋憲(弟・次男)
横屋猷(弟・三男)
栄誉 従三位勲四等
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横屋 潤(よこや じゅん、1884年明治17年)8月5日[1][2]- 1950年昭和25年)[3])は、日本の農林官僚であり農林技師である。種馬師となり、東京競馬場長に就任。後年は日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事となった。日本競馬会の理事長安田伊左衛門を補佐した。名馬であったダイオライト購入にも携わる。岡山県高梁市出身。

経歴

生い立ち

1884年(明治17年)に岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の新見藩士族[4]である横屋善次の長男として生れる[1]。潤の祖父である横屋幸喬(読み:ゆきたか)は新見藩の槍術師南役であった[4]。弟の次男横屋憲は倉敷紡績工場長・日華紡織監査役、三男横屋猷長崎大学水産学部教授を務めた。親戚には、イェール大学卒業後、北海道拓殖銀行十五銀行(後の三井銀行)常務取締役を務めた横山昌次郎がいる。

1899年(明治32年)地元に近い旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)に進学する。部活では、野球部一塁手であった[5]。同期には、第2代山発商店社長(現:アングル)の山本発次郎、大阪無線電気学校(現:大阪電気通信大学)初代校長の長野新十郎がいた。

1904年(明治37年)同校を卒業し、旧制第六高等学校へ進学する[6]。高校では端艇部柔道部に所属していた[5]。特に柔道部においては、強いことでその名を馳せており、1906年(明治39年)には旧制高校柔道界の強豪である第四高等学校正力松太郎(後の読売新聞社長)とライバルとしてよく対戦していた[5]1907年(明治40年)同校卒業し[7]東京帝国大学農科大学獣医科へ進学する[8]。1910年(明治43年)同校を卒業し、陸軍省馬政局に就職する[9]

官僚として

陸軍省馬政局へ入局後、技手になり、青森県上北郡七戸町にある奥羽種馬牧場に配属される[9]。その後、1913年大正2年)29歳で愛知種馬所長となる[10]1916年(大正5年)には、秋田種馬所長になり[11][12]1922年(大正11年)十勝種馬所長[13]となる。1923年(大正12年)には、種馬牧場の所轄が陸軍省から農商務省へ移る。そして、栃木種馬所の技師となる[14][1]。同年には欧米に出張する[2]。その後、農商務省が1925年(大正14年)に農林省商工省へ分割される。農林省に属し、1928年(昭和3年)44歳で畜産局の馬産課長となり、日高種馬牧場長となる[2]。同時期に日本乗馬協会参与も務める[5]

ダイオライト(下総御料牧場種馬)

1929年、1935年にも欧米出張を行い、この経験が後の日本競馬へと繋がる[2]。日本競馬の父と呼ばれる安田伊左衛門らと共に日本競馬会設立委員会の幹事となり、日本競馬会設立に関わる[15]。その後、東京競馬場長となる[16]。1936年(昭和11年)宮内省の横屋潤と井上綱雄によって8500ポンドでイギリスから種馬を購入する。名前はダイオライトと呼び、千葉県下総御料牧場で種牡馬入りし、同じ下総御料牧場のトウルヌソル岩手県小岩井牧場のシアンモアらと並び、当時のトップクラスといえる高額な馬であった。その期待に応え、1941、1942、1943、1946年と4度に渡って国内リーディングサイアーを獲得するなど大きな成功を収め、1951年に死亡した後、その功績を記念して千葉の船橋競馬場ではダイオライト記念が催されている[17]

1940年(昭和15年)3月、長年勤めた農林省と宮内省を退官し[18]日本競馬会(現:日本中央競馬会)常務理事に任命される[19][20]。このまま終戦を迎えた。従三位勲四等を受賞する。

1950年(昭和25年)東京にて死去。享年66歳であった[3]

欧州出張報告書

横屋潤による欧州出張レポートは、農林官僚としての立場から欧州諸国の農業、畜産、競馬に関する視察結果を報告したものである。本項では、特に競馬に関連する文化、制度、社会的意義について詳述されている点が興味深い。以下に、その要点を記載する。

欧州諸国における競馬の位置づけ

横屋が視察を通じて感じたのは、競馬が欧州諸国において単なる娯楽を超えた社会的・経済的な活動として機能しているという点である。競馬は、各国における馬産業の発展を支え、同時に人々の日常生活の一部として定着している。戦時中、一時的に競馬が中断された国もあったが、戦後には各国で競馬が再び盛んになり、その復興の速度と規模は非常に印象的であったと述べている[21]

特にイギリスやフランスでは、競馬が伝統文化の一環として深く根付いており、その歴史の重みと社会的意義の大きさが強調されている。競馬は、農業政策や地域社会の経済活動に密接に結びついており、単なるギャンブルとして捉えられる日本の競馬とは異なる次元で展開されている[21]

賭事制度の違い

欧州各国では競馬の賭事に関する制度が異なっており、それが競馬文化に与える影響も多岐にわたる。横屋が特に注目したのは、賭事の方法とその法的枠組みである。

  1. イギリスとアメリカ イギリスアメリカでは「ブックメーカー」方式が主流である。この方式では、個人が観客と直接的に賭けを行う仕組みであり、賭け金の割合や条件がレース直前まで変動する。この柔軟性が観客の興味を引きつけ、競馬の娯楽性を高めている。横屋は、この仕組みが競馬場の活気を生み出す要因であると評価している[21]
  2. フランス・ドイツ・オーストリア フランスドイツオーストリアでは「パリミュチュエル」方式が採用されている。この方式では、賭金の総額から一定の手数料を差し引いた残りを当選者間で分配する仕組みである。フランスでは、賭金の一部が政府および競馬協会に収益として徴収され、その収益が馬産業の振興や公共事業に充てられている。横屋は、これが競馬を国の発展に役立てる優れたモデルであると考えていた[21]

競馬場の特徴

視察の中で、横屋は欧州各国の競馬場にも注目している。競馬場には「永久的なもの」と「一時的なもの」が存在し、その規模や設備には大きな差がある。イギリスやフランスの競馬場は歴史的建造物としての価値も備え、観客が快適にレースを楽しむための工夫が随所に見られる。一方で、ドイツなどでは第一次世界大戦後復興の影響から比較的新しい施設も多く、実用性を重視した設計が特徴的である[21]

また、競馬場の立地やコースの形状がレースの見やすさや観客の楽しみ方に影響を与えている点にも触れられている。特にフランスのロンシャン競馬場やイギリスのアスコット競馬場など、著名な競馬場はその美しい景観と歴史的背景から観光地としても高い評価を得ている[21]

競馬と社会的影響

競馬は、農業や畜産業と密接に結びついている。横屋は、競馬を通じて馬の改良や育成が進む一方で、農業政策の一環としても重要な役割を果たしていると述べている。特にフランスでは、競馬が馬産業全体の発展を支える仕組みとして機能しており、農村部の雇用創出や経済活性化にも寄与している[21]

さらに、競馬は都市住民の娯楽としても大きな人気を誇り、週末になると多くの人々が競馬場を訪れる。その様子は、単なる賭事を超えた文化的なイベントとしての側面を持っている。競馬に特化した新聞や専門メディアが存在する点も、欧州における競馬の社会的影響力を物語っている[21]

横屋は、欧州の競馬文化が日本の競馬と異なる次元で社会に根付いている点を強調している。特に、競馬が単なるギャンブルではなく、農業、経済、文化の発展に寄与する仕組みとして成立していることは、日本の競馬制度を改善する上で参考になると述べている。また、競馬場の運営や賭事制度の違いを学ぶことで、日本の競馬文化を国際的な水準へと引き上げるヒントを得たとしている。欧州諸国の競馬文化は、その歴史や社会的背景に基づき多様であるが、それぞれが地域社会や国全体に利益をもたらすよう工夫されている。この視察は、日本の競馬が単なる娯楽を超えた社会的意義を持つ産業へと進化する可能性を示唆している[21]

この横屋の三回に渡る欧州出張は後の日本競馬に大きな影響を与えることになった。

脚注

  1. ^ a b c 落合町誌 p.289, 落合町誌刊行会 編, 昭和7年
  2. ^ a b c d 人事興信録 第12版下 『ヨ之部』p.14, 人事興信所 編, 昭和15年
  3. ^ a b 日本馬政史 続 第3, 神翁顕彰会, 1963年
  4. ^ a b 上房郡案内誌, 上房郡案内誌編纂会, 昭和3年
  5. ^ a b c d 日本スポーツ人名辞典 昭和8年版, 日本スポーツ協会 編, 昭和8年
  6. ^ 第六高等学校一覧 明治37-39年 p.184, 第六高等学校, 明39年
  7. ^ 第六高等学校一覧 明治44-45年 p.210, 第六高等学校, 明45年
  8. ^ 東京帝国大学一覧 明治40-41年 p.95, 東京帝国大学, 明41年
  9. ^ a b 職員録 明治45年現在(甲), 印刷局, 明治45年
  10. ^ 官報 1913年08月08日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 大正2年
  11. ^ 官報 1916年06月20日, 大蔵省印刷局 [編] , 日本マイクロ写真 , 大正5年
  12. ^ 職員録 大正8年, 印刷局, 大正8年
  13. ^ 官報 1922年01月23日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真, 大正11年
  14. ^ 職員録 大正12年, 印刷局 [編], 大正12年
  15. ^ 官報 1936年12月14日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真 , 昭和11年
  16. ^ 日本競馬史 第6巻, 日本中央競馬会, 1972年
  17. ^ ダイオライト記念 歴代勝ち馬【おうまのアイコン wire-to-wire】
  18. ^ 人事興信録 第13版下, 人事興信所 編, 昭和16年 13版
  19. ^ 官報 1940年04月23日, 大蔵省印刷局 [編], 日本マイクロ写真 , 昭和15年
  20. ^ 農林水産団体会社総覧 p.86, 農林水産技術協会 編, 昭和18年
  21. ^ a b c d e f g h i 内外彙報 欧州出張談 (第3回 ) 横屋潤



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