妹尾幹
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 04:16 UTC 版)
せのお かん
妹尾 幹
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生誕 | 1905年7月29日![]() (現:高梁市) |
死没 | 1969年8月13日(64歳没)![]() |
国籍 | ![]() |
出身校 | 東京帝国大学文学部 |
職業 | 教育者 |
肩書き | 東京音楽学校教授 (現・東京藝術大学音楽学部) 旧制山口高等学校教授 島根大学教授 岡山大学助教授 北海道大学教授 神奈川大学教授 |
妹尾 幹(せのお かん、1905年(明治38年)7月29日 - 1969年(昭和44年)8月13日[1])は、日本の教育者。東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)を務めた後[2]、旧制山口高等学校(山口大学経済学部の前身)・島根大学教授、岡山大学助教授、北海道大学、神奈川大学教授となる。岡山県高梁市出身[1]。
経歴
生い立ち
1905年(明治38年)、岡山県上房郡高梁町(現:高梁市)の妹尾善平の子として生まれる[3]。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)を経て、1923年(大正12年)旧制松江高等学校文科乙類に進学[4]、1926年(大正15年)、同校を卒業し、東京帝国大学文学部独文学科へ進学した[5]。1930年(昭和4年)3月に同大学を卒業した[6]。卒業後、妹尾はドイツ語の教諭となる。
教員時代
妹尾は、東京音楽学校教授(現:東京藝術大学・音楽学部)となり[7]、15年間、東京音楽学校のドイツ語教務主任教授を務めた[8]後に、1946年(昭和21年)には、旧制山口高等学校教授となる[9]。1951年(昭和26年)には、母校である新制島根大学(旧制松江高等学校)の教授となり[10]、一旦岡山へ帰郷した際に、1955年(昭和30年)に岡山大学法文学部助教授となる[11][12]。その後、1957年(昭和32年)直ぐに北海道大学文学部教授となり[13]。1962年には、神奈川大学教授となる[14]。
日本各地を転々と異動してきた妹尾であったが、神奈川大学の教授となった後は、一貫して亡くなるまで神奈川大学へ所属した[15]。1969年(昭和44年)8月13日、64歳で死去[1]。
脚注
- ^ a b c “妹尾幹 - 近代文献人名辞典(β)”. lit.kosho.or.jp. 2025年6月15日閲覧。
- ^ 日本紳士録 43版(昭和14年) 341頁, 交詢社 編, 昭和14
- ^ 一個の人 : 遺稿集 妹尾幹, 著 妹尾ヒデコ, 1971年
- ^ 松江高等学校一覧 自大正13年至14年 86頁
- ^ 東京帝国大学要覧 従大正14年 至大正15年 58頁
- ^ 東京帝国大学要覧 昭和4年 402頁
- ^ 大衆人事録第14版東京篇 545頁, 帝国秘密探偵社編, 昭和17 14版
- ^ 官報 1945年10月13日
- ^ 官報 1946年07月24日
- ^ 会員氏名録 昭和26・27年用, 学士会, 1951
- ^ 文化人名録 昭和32年版(6版), 日本著作権協議会
- ^ 岡山大学二十年史, 岡山大学二十年史編さん委員会 編 岡山大学, 1969年「島根大学から妹尾幹助教授を,東京大学大学院から浜崎長寿助手を迎えるという大変動(略)」
- ^ 会員氏名録 昭和32・33年用, 学士会, 昭和32
- ^ 高級ドイツ文典, 小林松次郎 著 三修社, 1962
- ^ 岡山県展望 1969年版, 岡山日日新聞社, 1969
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