浦上衛門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 浦上衛門の意味・解説 

浦上衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/08 13:27 UTC 版)

うらがみ もりと

浦上 衛門
生誕 1899年6月16日
日本岡山県御津郡一宮村
(現・岡山市
死没 詳細不明
日本大阪府豊中市
出身校 京都帝国大学工学部土木工学科
肩書き 大阪地下街社長
土木学会名誉会員
テンプレートを表示

浦上 衛門(うらがみ もりと[1]1899年明治32年)6月16日[2] - 詳細不明)は、日本の土木技師であり、実業家である。大阪市技師となり土木局長となった後、大阪地下街社長となる。土木学会名誉会員。岡山県岡山市出身[3]

経歴

生い立ち

1899年(明治32年)岡山県御津郡一宮村(現:岡山市)に生れる[2][4]。旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高校)卒業を経て[5]、1918年(大正7年)に旧制第六高等学校医科(3部)へ進学する[6]。その後、1922年(大正11年)3月同校を卒業し、京都帝国大学工学部へ進学する[7]。1925年(大正14年)3月、工学部土木工学科を卒業する[8]

大阪市職員として

京大を卒業後、すぐに大阪市役所に入り、土木技師として働く。第二次世界大戦後、1946年(昭和21年)計画部長となり、翌年、土木部長となる。1948年(昭和23年)48歳のとき土木局長となる[9]。その後、浦上は、市役所を定年退職し、1956年(昭和31年)、大阪地下街株式会社発足と共に、その企業の専務取締役に就任する[9]

浦上らが中心となって、大阪地下街を造ることになったが、その理由として以前、市役所で働いていたときに、戦前の大阪にはすでに何ヶ所か地元の有力者が市に寄付した児童通学用の地下道があったが、これが戦中から浮浪者の溜まり場になっていた[9]。これを地元商人が通路を管理する代わりに、学用品店を開かせて欲しいと申し出があり、これを市で認可した。すると、その店は直ぐに繁盛した経験から、大阪に地下街を造ることになった[9]。1957年(昭和32年)57歳のときに、大阪地下街の代表取締役社長となる[9]

その後、1970年(昭和45年)5月、土木学会名誉会員となる[10]。また、1980年(昭和55年)関西道路研究会の功労賞を受賞する[11]

脚注

  1. ^ 経済人 7(4)(67), 関西経済連合会, 1953年4月
  2. ^ a b 土木技術者名鑑 1973, 土木技術者名鑑録刊行委員会 編 国土開発研究所, 1973
  3. ^ 日本叙勲者名鑑 自昭和47年4月至昭和48年4月, 日本叙勲者協会, 1974
  4. ^ 岡山県年鑑 昭和12年 1104頁
  5. ^ 〔岡山県高梁中学校有終会〕有終 第23号, 高梁中学校有終会, 1922年2月
  6. ^ 第六高等学校一覧 自大正7至8年 227頁
  7. ^ 第六高等学校一覧 自大正11至12年 237頁
  8. ^ 京都帝国大学一覧 昭和2年至昭和3年 533頁
  9. ^ a b c d e 都市民俗学 5 (文明の擬態), 望月照彦 著 未来社, 1991.2
  10. ^ 土木学会名誉会員一覧』土木学会委員会
  11. ^ 関西道路研究会(過去の表彰)”. www.kandoken.jp. 2025年7月8日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  浦上衛門のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「浦上衛門」の関連用語

浦上衛門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



浦上衛門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの浦上衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS