地中海戦域
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「ダンケルク (戦艦)」の記事における「地中海戦域」の解説
詳細は「メルセルケビール海戦」を参照 1940年(昭和15年)4月初頭、ドイツ軍のヴェーザー演習作戦によりノルウェーの戦いが始まり、フランス艦隊も出撃準備をおこなう。だが同時期にイタリア王国参戦の可能性が高くなり、同月末までにダンケルク級を含む襲撃部隊は北アフリカのアルジェリアに移動した。イタリアが参戦した場合、フランス海軍が地中海の西側を担当し、アレクサンドリアを拠点とするイギリス海軍の地中海艦隊が東半分を受け持つ。ダンケルクとストラスブールはアルジェリアのメルス・エル・ケビールでドック入りし、整備をおこなった。 5月以降のドイツ軍快進撃により、連合国軍は西部戦線で大敗した。6月10日、イタリア王国が枢軸側にたって連合国に宣戦を布告し、地中海戦域は一気に緊迫化した。フランス海軍はヴァード作戦 (Opération Vado) を発動し、巡洋艦部隊でイタリア北西部のジェノヴァ軍港を砲撃した。この作戦にダンケルク級は参加していない。6月22日に独仏休戦協定が、24日にフランスとイタリア間でヴィラ・インチーサ休戦協定(イタリア語版、フランス語版)が結ばれて、フランスは事実上降伏する。さらにヴィシー政権が成立すると、イギリスは「これらのフランス艦艇がナチス・ドイツに接収されるのではないか」と懸念した。 7月3日、イギリス軍はフランス艦隊を無力化するためカタパルト作戦 (Operation Catapult) を発動し、ジブラルタルを拠点に行動するH部隊 (Force H) がメルセルケビール沖合に集結する。H部隊司令官ジェームズ・サマヴィル中将の旗艦は、かつてダンケルク(ジャンスール提督)と共にシャルンホルスト級を追跡した英巡洋戦艦フッド (HMS Hood) であった。 メルセルケビールには、新型戦艦2隻(ダンケルク、ストラスブール)、プロヴァンス級戦艦2隻、水上機母艦コマンダン・テスト (Commandant Teste) などが停泊していた。H部隊はフランス艦隊(司令長官ジャンスール中将、旗艦ダンケルク)に降伏もしくは自沈を促すと共に、空母アーク・ロイヤル (HMS Ark Royal, 91) のソードフィッシュ (Fairey Swordfish) が機雷を投下した。夕刻になり戦端が切られ、H部隊は港外から砲撃を開始する。フランス艦隊も撃ち返した。15インチ砲4発が命中したダンケルクは中破し、沈没を避けるため故意に浅瀬に座礁させられた。戦艦プロヴァンス (Provence) も被弾して着底し、戦艦ブルターニュ (Bretagne) は爆沈した。ストラスブールと大型駆逐艦5隻は脱出に成功し、トゥーロンに辿り着いた。7月6日、H部隊はアーク・ロイヤル搭載機による空襲をおこなう(レバー作戦)。ソードフィッシュの攻撃で哨戒艇が被雷、その搭載爆雷の誘爆でダンケルクは一層の被害を受けた。一連の戦闘による本艦の戦死者は200名を越えたという。
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地中海戦域
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「オスカー=ハインリヒ・ベール」の記事における「地中海戦域」の解説
1942年6月にJG 77は地中海戦域へ転戦し、チュニジアへの移転と北アフリカでの作戦行動の前にマルタ上空での戦いに参加した。ベーアが149機目を撃墜するとハンス=ユルゲン・フォン・アルニム将軍はベールに柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章を申請した。国家元帥ヘルマン・ゲーリングはこの申請を無視し、ベーアにダイヤモンドを追加授与することを拒否した。この理由について確かなことは残されていないが、ゲーリングはベーアのことをその反抗的な性格とゲーリングが嫌悪していたことで知られる強い低地ザクセン地方訛りが理由で嫌っていたといわれている。 ベーアと彼のJG 77/第I飛行隊は1943年3月初めにはチュニジアのFatnassaを拠点としていた。3月1日、ベーアはスピットファイアを1機撃墜した晩にJG 77/第I飛行隊を告知無しで訪問したアドルフ・ガーランドと会った。ガーランドはヨアヒム・ミュンヒェベルク少佐に迎えられ、ミュンヒェベルクはベーアをガーランドに紹介した。このようにして第二次世界大戦の間継続する戦友の付き合いが始まった。 北アフリカと地中海戦域で撃墜記録を179機までのばしたが、増大する連合国軍の空での優勢に対しての負け戦でベールは戦意を喪失し精神的にも肉体的にも激しく消耗していた。JG 77の新しい戦闘航空団司令のヨハネス・シュタインホフ大佐とヘルマン・ゲーリングが協議した後で1943年の夏にベーアは「敵前での臆病な振舞いにより」飛行隊長の任を解かれフランスへ異動させられた。ベーアは訓練部隊である南部戦闘飛行隊の指揮を引き継いだ。
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