ノルウェーの戦い
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ノルウェーの戦いは、第二次世界大戦中の1940年、ドイツ軍によるデンマーク・ノルウェー侵攻(ヴェーザー演習作戦)により、ドイツ軍と連合国軍との間で、ノルウェーにおいて行われた戦い。イギリスとフランスはノルウェー援護のため遠征部隊を派遣した。ドイツ軍によるフランス侵攻の結果、連合国軍は撤退を余儀なくされ、ノルウェー政府もロンドンへ逃れ、ドイツによるノルウェー占領という結果に終わった。戦闘は4月9日から6月10日まで続いた。
- 1 ノルウェーの戦いとは
- 2 ノルウェーの戦いの概要
- 3 背景
- 4 影響
ノルウェーの戦い(1940年)
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「ケリー (駆逐艦)」の記事における「ノルウェーの戦い(1940年)」の解説
1940年5月、ケリーはナムソスからの撤退作戦に参加する。撤収は5月1日と2日の夜に実行する予定であったが、5月1日は濃霧のため中止となった。しかし、ケリーのマウントバッテン大佐は指揮下の駆逐艦で兵員の収容を行うことを提案し許可された。ケリー、マオリのほか駆逐艦グレネードとグリフィンの4隻が濃霧の中を岩場を避けつつ26ノットでフィヨルド内に入った。だが予想に反してフィヨルド内は霧がほとんどなく、わずかに残る霧も高度が低かったため、マオリのマストが霧の上に出てしまいドイツ軍機の攻撃を招いた。この空襲によって損傷したマオリは作戦から外れた。5月2日から3日にかけての夜、重巡洋艦ヨークとケリーを含む4隻の駆逐艦はナムソスからの部隊の収容を実施して無事に終了したが、帰路ドイツ軍機による攻撃で駆逐艦アフリディとフランス海軍の大型駆逐艦ビゾンの2隻が失われた。ケリーは270名のフランス兵を乗せ、5月4日にスカパ・フローに着いた。 ケリーは5月5日にスカパ・フローから出港し、兵員輸送船の護衛を行った後ロサイスへ移動してノア管区に編入された。ところが5月9日から10日にかけての夜、軽巡洋艦バーミンガム、駆逐艦キンバリー、カンダハー、ヘイスティと共に敵艦艇を捜索中だったケリーは、ドイツのSボートS-31の雷撃により大破した。ケリーはグレート・エンペラーに3ノットで曳航されながら、Sボートと敵機の攻撃を耐えつつ4日後に帰還を果たした。この事例はダメージコントロールの成功例の一つとして海軍のポスターになった。海軍の監督官はケリーの生還について次のように記している。 士官と水兵たちの良き操船技術のみならず、他の区画へ浸水を広げなかった素晴らしい修理技術の成しえたものである。1本の不完全なリベットが彼女の命取りになっていたかもしれない。"not only by the good seamanship of the officers and men but also on account of the excellent workmanship which ensured the watertightness of the other compartments. A single defective rivet might have finished her." 5月13日にヘブバーンの造船所で長期修理に入ったケリーは1940年12月に修理が完了するまで復帰できなかった。ケリーの不幸は、1940年の1年間でわずかに23日しか活動できなかった有様だった。1940年5月にケリーのペナントナンバーはG01へ変更されている。 ケリーは1940年12月に第5駆逐群へ復帰した。フェロー諸島での対潜哨戒やドーバー海峡での敵艦艇捜索、ブレスト沖合への機雷敷設の護衛といった活動の後、1941年4月にケリーと第5駆逐群は地中海へ移動することになった。
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ノルウェーの戦い
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「フォークナー (駆逐艦・2代)」の記事における「ノルウェーの戦い」の解説
フォークナーは1940年4月から6月にかけてノルウェーの戦いに参加、本国艦隊の艦艇を護衛した。4月12日の第二次ナルヴィク海戦後、フォークナーの艦長兼第8駆逐艦戦隊司令アンソニー・デ・サリス大佐が、ナルヴィク周辺の駆逐艦全てを指揮する再先任駆逐艦士官に任じられた。彼が命じられた任務は、オフォト・フィヨルドの哨戒を実施し、潜水艦の侵入を防ぎつつドイツ軍側の防備状況を調査することだった。フォークナーから派遣された陸戦隊は擱座したドイツの駆逐艦Z19ヘルマン・キュンネを調査し、有用な文書の捜索や船体の被害状況調査を行った。彼らは何も発見できず、逆に狙撃手によって1名が戦死した。翌日、フォークナーと駆逐艦ズールーはヘルマン・キュンネを砲撃し炎上させた。この間、時折ドイツ軍機による攻撃を受けたが影響はほとんどなかった。 4月25日、フォークナーはサウスウェールズ・ボーダラーズ第2大隊のボーゲンとレンヴィクへの上陸を支援した。その後、ナルヴィクで前進する連合軍部隊を支援するためにドイツ軍陣地へ砲撃を実施している。5月4日、フォークナーはドイツ軍機に爆撃されて沈んだポーランド海軍の駆逐艦グロムの生存者52名を救助すると共に、同艦の乗員の遺体60体超を回収した。次の日、フォークナーはロンバクス・フィヨルドのドイツ軍を砲撃中に座礁事故を起こすが、軽微な損傷に留まった。修理のため本国へ帰還する道程で、フォークナーは空荷の兵員輸送艦を護衛した。フォークナーは5月9日にスカパ・フローへ到着し、グリムズビーへ修理に向かった。
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