地中海帝国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/23 08:23 UTC 版)
「カルロ1世 (シチリア王)」の記事における「地中海帝国」の解説
しかしシャルルの野望はとどまるところを知らず、今度はシチリア王伝統の政策である東ローマ帝国征服の野望を抱くようになる。そのために、彼は綿密な政治工作を次々と繰り出した。 1267年には男子後継者の見込みがないアカイア公国のギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンとヴィテルボ協定を結び、ギヨームを従臣とした上で自分の次男フィリップとギヨームの娘イザベルを結婚させて両者を後継者とし、彼らに男子が産まれない場合にはシャルル自らがアカイア公となるべきことも決定した。その後、東ローマ皇帝ミカエル8世パレオロゴスによって国を追われたラテン帝国皇帝ボードゥアン2世ド・クルトネーを保護し、さらに彼の息子フィリップと自分の娘ベアトリス(1275年没)を結婚させてその保護者に収まり、1273年にはラテン皇帝の地位を相続した。1277年には、さらにエルサレム王国の継承権を手に入れ、エルサレム王を称した。 1277年に次男フィリップ、1278年にアカイア公ギヨームが共に男子後継者なく死去し、シャルルはアカイア公も兼ねることとなった。こうした背景の上に、さらにいくつかの領土をアドリア海岸に獲得して東ローマ帝国に侵攻しようとしたが、ミカエル8世の東西教会統一政策などで侵攻を一時、中断せざるを得なくなった。
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