アラゴン=カタルーニャ連合王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 07:43 UTC 版)
「カタルーニャの歴史」の記事における「アラゴン=カタルーニャ連合王国」の解説
1137年にはバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世が、隣国アラゴン王国の女王ペトロニーラと婚姻関係を結んで王位継承権を得た。ここにアラゴン=カタルーニャ連合王国と呼ばれる同君連合が成立したが、バルセロナ伯とアラゴン王国の独自性は維持された。「カタルーニャ」という名称が初めて文献に登場するのはこの時代であり、アラゴン王国と対比してバルセロナ伯が統治する土地を指す際に使用された。1147年にはカスティーリャ王国のアルメリア征服を支援したことで、アリカンテまでの地中海沿岸がカタルーニャの土地となり、ラモン・バランゲー4世はイベリア半島でもっとも強大な権力を持つ君主となった。 Clip バレアレス諸島を再征服したハイメ1世 以後のバルセロナ伯はピレネー山脈以北への進出を試み、1179年にはアルフォンス1世がラングドック地方をバルセロナ伯の支配下に置いた。アルフォンス1世の治世(1162年-1196年)でピレネー以北の領土が最大に達したが、1213年にはラングドック地方を手放した。ハイメ1世(ジャウマ1世)(征服王)は1229年にイスラーム教徒からマヨルカ島を奪還し、1231年にはバレアレス諸島全体を征服し、1238年にはバレンシア王国を征服し、1265年から1266年にはムルシアを征服した。ハイメ1世はコルツと呼ばれる身分制議会(聖職者・貴族・王領)を導入し、財政・司法・立法などに権限を及ぼした。定期的に開催されたコルツは13世紀末に最盛期を迎え、1283年にはすべての法律の制定にはコルツの承認が必要であるとする決定が下されている。1354年にはジャナラリタット(議会の決定の執行機関)が常設され、君主の不在時や緊急時にはジャナラリタットが国家を統治している。1258年にはハイメ1世とフランス王ルイ9世の間でコルベイユ条約が結ばれ、フランスは正式にカタルーニャ君主国の独立を承認した。 1282年にはイタリア半島の南に位置するシチリア島の住民がアンジュー朝に対する暴動シチリアの晩祷を起こし、アラゴン王ペラ2世がシチリア王に据えられた。カタルーニャとアラゴンの傭兵部隊であるアルモガバルスはビザンツ帝国のアンドロニコス2世パレオロゴスに雇われ、オスマン帝国軍を小アジアまで押し戻した。しかし、雇用主のビザンツ帝国が1305年にアルモガバルスの首領ルジェ・ダ・フローを暗殺したことで、アルモガバルスはビザンツ帝国内で「カタルーニャの復讐」と呼ばれる報復を行い、アテネ公国を占領、ネオパトリア公国を樹立した。ハイメ1世の死去後、次男のジャウメ3世(英語版)に与えられたマヨルカ島は独立したマヨルカ王国となっていたが、1344年にはペラ3世がマヨルカ王国をアラゴン=カタルーニャ連合王国の手に戻した。カタルーニャが「君主国」(principat)と呼ばれるようになったのはペラ3世の治世である。 ハイメ1世がカタルーニャの地中海進出の基礎を築き、その後継者らが「カタルーニャ帝国」とも呼ばれる地中海帝国を形成させた。カタルーニャは海図の製作技術に優れ、船足の早いガレー船を建造することができ、地中海沿岸の主要な港に商品の集散基地を持った。カタルーニャ人商人は、北アフリカのマグレブ地方、ギリシャのロドス島、キプロス島、西アジアのダマスクスなどにも勢力を伸ばし、地中海中央部ではシチリア島が政治的な拠点となった。絶頂期は1320年-1330年頃まで続いたが、14世紀にはペストの流行、イナゴの大量発生、地震、飢饉などの災難に見舞われ、1390年のカタルーニャの人口は1300年の75%にまで落ち込んだ。この一方で、首都バルセロナには地中海全体に権限が及ぶ商業組織ができ、15世紀初頭のバルセロナには商品取引所が存在した。14世紀中頃には海事慣習法集が作成され、1484年に刊行されると数世紀に渡って地中海地域共通の慣習法として用いられた。 1410年にはバルセロナ伯のマルティン1世が男子の跡継ぎを残さずに急逝したために、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアの3王国が投票するカスペの妥協で後継者を選出し、カスティーリャ・トラスタマラ家出身のフェルナンド・デ・アンテケーラ(フェルナンド1世)がカタルーニャ君主国の新君主に選ばれた。1443年にはカタルーニャのアルフォンス5世がナポリ王国の王位に就いた。アルフォンス5世の治世にはイベリア半島、イタリア半島(ナポリ王国)、アルバニア、スロベニア、マルタ、エーゲ海のいくつかの島が支配下にあり、アラゴン=カタルーニャ連合王国の版図は最大となった。北アフリカにあるいくつかの王国からは貢物が届き、カタルーニャの船舶はエジプトの港に自由に入港できた。
※この「アラゴン=カタルーニャ連合王国」の解説は、「カタルーニャの歴史」の解説の一部です。
「アラゴン=カタルーニャ連合王国」を含む「カタルーニャの歴史」の記事については、「カタルーニャの歴史」の概要を参照ください。
- アラゴン=カタルーニャ連合王国のページへのリンク