ハイメ2世との結婚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 07:30 UTC 版)
「アリゼンダ・デ・ムンカーダ」の記事における「ハイメ2世との結婚」の解説
ハイメ2世の治世でアラゴン=カタルーニャ連合王国は地中海における覇権を握っている。ハイメ2世は文化の保護者でもあり、哲学者・著作家のラモン・リュイ(ライムンドゥス・ルルス)、錬金術師・占星術師のアルナウ・ダ・ビラノバ(アルナルドゥス・デ・ビラ・ノバ)などのパトロンとなり、1300年頃にはアラゴン連合王国初・カタルーニャ地方初の大学(リェイダ大学)を設立している。ハイメ2世がサルデーニャ島(1323年からサルデーニャ王)に遠征して治世最大の成功を収めた直後、1322年にタラゴナでハイメ2世とアリゼンダが結婚した。 この結婚により、ハイメ2世が2番目の妻ブランカ・デ・ナポレスとの間に残した10人の子どもの継母となっている。1267年生で55歳のハイメ2世と1292年生で30歳前後のアリゼンダの間には、約25歳の年齢差があった。ふたりはバルセロナの王立宮殿に移り、アリゼンダは高齢で病気がちのハイメ2世の世話や礼拝を行う日々を過ごした。1326年、ハイメ2世とアリゼンダはパドラルベス修道院(英語版)の設立を許可。結婚から5年後の1327年にはハイメ2世が死去したが、二人の間には子どもがなかった。
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