ジャウマ・ファレー・バッサとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ジャウマ・ファレー・バッサの意味・解説 

ジャウマ・ファレー・バッサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/13 03:59 UTC 版)

ジャウマ・ファレー・バッサ
Jaume Ferrer Bassa
サン・ミゲル礼拝堂にあるフレスコ壁画
誕生日 1285年
出生地 アラゴン=カタルーニャ連合王国
死没年 1348年
芸術分野 絵画
テンプレートを表示

ジャウマ・ファレー・バッサJaume Ferrer Bassa, 1285年1348年)は、アラゴン=カタルーニャ連合王国出身のゴシック画家・細密画家[1]。国際的に認知されたカタルーニャ地方初の画家である[2]

経歴

バッサはバルセロナの中産階級市民であり、1324年から1348年までの文献に登場するが、その経歴についてはあまり知られていない[2]。バルセロナ王宮やバルセロナ大聖堂の近くに工房を有していた[1]。存命中には大きな名声を得ていたものの、社会的地位は控えめだった[1]

バッサに関する最初の言及は1324年に遡り、この文献ではシッチェスの古い教会に付属する礼拝堂にフレスコ画を描くように依頼されている[1][2]。次の言及は1333年のものであり、アラゴン王アルフォンソ4世とその息子アラゴン王ペドロ4世に作品を委託されている[1][2]。バッサの作品にはジョット・ディ・ボンドーネの影響があり、この時期にはイタリアのシエナフィレンツェの画学校で学んでいた可能性がある[1]

バッサの作品だと確定されている現存作品は、パドラルベス修道院に付属するサン・ミゲル礼拝堂にあるフレスコ壁画のみである[1]。この壁画はキリストの受難、聖母の喜び、聖人の画像など20の要素で構成されており、1343年の委託後に1346年までこの礼拝堂で作業を続けた[1][2]。バッサはアラゴン=カタルーニャ連合王国におけるイタリア様式の代表的画家であるとされている[1]。晩年の1345年から1346年にはイタリアを訪れていた可能性がある[1]

バッサは主にアラゴン王に仕えており、現存してはいないものの多くの祭壇画などを制作した[1]。息子のアルナウ・バッサ英語版も画家となり、いくつかの作品は親子が共同で手掛けている。バッサは1348年のペスト流行時に死去した[1]

文献

  • Lafuente Ferreri, E. (Spanish). Historia de la pintura española. Biblioteca Básica Salvat 

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l Jaume Ferrer Bassa”. Biografias y vidas. 2016年2月20日閲覧。
  2. ^ a b c d e Jaume Ferrer Bassa”. カタルーニャ百科事典. 2016年2月20日閲覧。



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャウマ・ファレー・バッサ」の関連用語

1
ジャウマ・セラ 百科事典
30% |||||

2
トベの聖母 百科事典
30% |||||

ジャウマ・ファレー・バッサのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャウマ・ファレー・バッサのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャウマ・ファレー・バッサ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS