分界の起源と取り決め
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:57 UTC 版)
「デマルカシオン」の記事における「分界の起源と取り決め」の解説
1972年9月の第1回ポルトガル・スペイン海外史学会に寄せられた論文では、分界の起源は再征服運動(レコンキスタ)の2国間条約に起源を持つ「フロンティア」の一種としている。12世紀半ば以降、ムスリム支配下の土地に線引きをし、その土地に対する権利を分けあうという条約がイベリア半島でたびたび締結されていた。しかし12世紀から14世紀におけるカスティーリャ王国・アラゴン王国両国の未征服地分配の取り決めに、レコンキスタの一角であったポルトガルは排除されていた。アラゴン王国は13世紀半ばのレコンキスタ完了から地中海帝国へ進んだが、15世紀には北西アフリカと大西洋諸島でカスティーリャ王国とポルトガルの間で軋轢が生じ、その利害調整が分界の契機となった。 ローマ教皇から領土拡大の正当性を与えられることで、スペイン・ポルトガル両国は国益を得て、ローマ教皇庁はキリスト教圏の拡大を果たした。イベリア両国には武力をともなった海外への進出を正当化するための精神的支援と教皇の権威が必要で、教皇庁としてもカトリック教圏を拡大するために両国の力が必要であったため、両者の利害は一致していた。そして、イベリア両王国の世界分割を正当化し、海外進出と植民地支配の根拠となったのが、教皇勅書と布教保護権 (Patronato Real) であった。 布教保護権により両国の政府と国王は、植民地の牧会と布教、および教会関係施設の設立と運営の義務を負うと同時に、司教と宣教師の人選の権限を付与された。両国王室は、キリスト教の布教を援助すると同時に、「布教地」の保護者となることでその統治の正当性を得た。 そしてローマ教皇が与えた教皇勅書は、海外で発見した土地を「征服に属する地域」であると見なし、その地域の航海、貿易、布教の独占権を認め、領有を正式に承認していた。現代のような国際法の概念も理論も未成熟であった大航海時代には、「地上における神の代理人」である教皇の決定は神の意志として全キリスト教圏の国々と王たちを拘束し、教皇勅書は一種の国際法的な意味と国際的拘束力を持っていた。これはキリスト教圏のヨーロッパにとって未発見の土地や回復(レコンキスタ)の理念がおよばない土地の征服権を特定の君公に「贈与」できるという「教皇至上主義(ウルトラモンタニズム)」に基づいていた。 「発見」が「領有」の法源(法の源泉)になるという、後のスコラ学者たちの論理は、このキリスト教圏の秩序の構造に発していた。
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