分界線の意味の変容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 00:57 UTC 版)
「デマルカシオン」の記事における「分界線の意味の変容」の解説
宗教改革が始まり、教皇の権威が衰退することで、分界線の意味は変化していった。 世界を二分割しそれぞれを領有する権利をスペイン・ポルトガルが有する根拠が教皇の権威にある以上、その権威が揺らぐことで分界線の効力も弱まった。分界線を無視してイングランドやフランスが海外進出してゆくにつれ、教皇子午線は旧世界と新世界、ヨーロッパとアメリカを分割する線を意味するようになっていった。「旧世界=ヨーロッパ」は「無主」の土地はすでに無く、戦争を抑止するヴェストファーレン体制が形成されて、秩序やルールが生まれた。一方「新世界」は、ヨーロッパ諸国家同士の約束事が通じない、自由に奪い合うことができる領域で、「先占と拡張のための自由なフィールド」であり「巨大な陸地取得における粗野なつかみ取り」となっていた。 ドイツの法学者カール・シュミットによれば、分界線の変化の兆候は1559年に締結されたカトー・カンブレジ条約に付帯する密約で、フランスとスペインがヨーロッパにおける宗教戦争では旧教(カトリック)国同士互いに協調するが、「新世界」ではその限りではないと確認したことにあった。この後、フランスの海賊がスペインのカリブ海植民地を襲撃し、やがてフランスはカリブ海や北米のルイジアナに拠点をもつようになる。 ジョン・ホーキンスをはじめとしたイングランドの船乗りたちはカリブ海地域でスペインの「宝船」を襲うようになり、これが1588年のスペイン無敵艦隊とイングランドの戦い(アルマダの海戦)を引き起こす要因の1つとなった。 分界線は「友誼線 (amity line)」と呼ばれるようになり、条約、平和、友誼が適用されるのは「友誼線の東側=旧世界、ヨーロッパ」のみで、「線の西側=新世界、南北アメリカ大陸」には適用されないという原則が生まれた。こうしてイギリスの私掠船が略奪を行える自由な領域が作られ、エスパニョラ島に拠点を置く海賊と手を組んだフランスはスペインの植民地や商船を襲うようになった。友誼線の向こうではヨーロッパの国際法の規定は無く、強者の権利だけがまかり通る、他を考慮しない自由な暴力使用の領域となった。 ヨーロッパ国際法の例外領域とされた「新世界=南北アメリカ大陸(アメリカ州)」は、後にアメリカ合衆国の独立、それに続くアメリカ合衆国大統領ジェームズ・モンローのモンロー宣言によってヨーロッパ諸国の影響力を排除し、その支配から脱する。
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