陝西省の戦い、第1次奉直戦争
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「李鳴鐘」の記事における「陝西省の戦い、第1次奉直戦争」の解説
1921年(民国10年)春、馮玉祥は解任を拒む前陝西督軍・陳樹藩討伐のため閻相文の第20師、呉新田の第7師と陝西省遠征を命じられた。左路軍は秦嶺山脈を西進し、西安東部の臨潼区にて姜宏謨率いる1個騎兵団を撃破した。続いて西安にて2個団と共同で城内の督軍署を攻め落とし、西に逃げる陳樹藩を追いかけようとしたが、結局山中に逃げ込まれたため咸陽市に引き返し、部隊の休息を行った。翌1922年(民国11年)4月、第1次奉直戦争が勃発すると、大至急保定への進軍を命じられ、3個団を率いて丸一日かけて300里の距離を進軍し、大灰廠にて奉天軍を撃破、長辛店を占領した。戦後、曹錕と呉佩孚より剛威将軍と一等嘉禾勲章を授与された。また、馮玉祥の指揮を離れ、北京で師長への道を打診されたが断り、部隊を率いて河南督軍に就任した馮玉祥の下に帰参。兼任で帰徳鎮守使(豫東鎮守使とも、帰徳は現在の商丘市)に任命されたが、ほどなくして呉佩孚の圧力で第11師ともども河南省を去る。
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