陝西侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:43 UTC 版)
テゲ・コルチの撤退から3年後の1235年(乙未)から高麗侵攻は再開されたが、主将はタングート・バアトル(唐古)になっており、テゲ・コルチは高麗攻めから外されていた。一方、朝鮮半島から遠く離れた陝西・四川方面では南宋攻めの一環として王子コデン率いる軍団が侵攻していたが、その配下の有力武将として「テゲ都元帥」なる人物の名前が記録されている。「草堂寺闊端太子令旨碑」には1247年(丁未)づけでコデンが出した命令(令旨)の中で、「テゲ・コルチ都元帥」が最も上位にある将軍として名前が挙げられている。 これを裏付けるように、陝西地方の京兆府総管の妻の妹の福聚は「咸平路宣撫使蒲鮮公長男」のテゲ(帖哥)に嫁いだとの記録があり、「草堂寺闊端太子令旨碑」でコデン配下の筆頭武将として名前が挙げられる「テゲ都元帥」は「蒲鮮万奴の長男のテゲ・コルチ」と同一人物で間違いないと見られる。テゲ・コルチは更に四川方面にまで進出したとみられるが、その後の動向は記録にない。
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