陝西攻略、さらに甘粛攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:44 UTC 版)
北征の功を認められ、馮勝は右副将軍に任じられる。そして洪武2年(1369年)、常遇春を大将軍とし、馮勝・湯和・楊璟という順位の組織で陝西を攻略する。まずは鳳翔(陝西省宝鶏市鳳翔区)を落とし、次いで鞏昌(甘粛省定西市隴西県鞏昌鎮)・臨洮(甘粛省定西市臨洮県)を落として敵将の李思斉を降した後、引き返した。ところが慶陽(甘粛省慶陽市)に着いた頃、北元の将軍ココ・テムルが部下に原州(寧夏回族自治区固原市原州区)を襲わせたため、馮勝は一軍を率いてこれを破った。これにより、陝西は平定された(『明史』には書かれているが、北元との戦いはまだまだ続く)。 その後、朱元璋は常遇春に帰還を命じ、馮勝に慶陽を守るように命じた。ところが馮勝は西安近郊まで軍を引いてしまった。朱元璋は激怒して馮勝を斬るよう命じたが、これまでの功績を考慮して死罪は免れている。洪武3年(1370年)、朱元璋は再び常遇春と馮勝に命じて西安から軍を出し、定西でココ・テムルを大いに破った。馮勝は別働隊を率いて鳳翔から南下し、略陽(陝西省漢中市略陽県)で元将を捕らえ、沔州(陝西省漢中市勉県)を占領した。その功で、開国輔運推誠宣力武臣・栄禄大夫・右柱国・参軍国事・宋国公に任じられた。さらに食禄三千石を生涯支給されることを約束された。 この頃、ココ・テムルの主軍はカラコルムでまだ健在だった。洪武5年(1372年)、朱元璋は軍を徐達・李文忠・馮勝の3人に分け与えて攻めさせた。馮勝は征西将軍に任命され、副将軍の陳徳・傅友徳等と共に甘粛を担当した。傅友徳は蘭州(甘粛省蘭州市)で果敢に攻め込んで敵を破り、馮勝も掃林山(甘粛省酒泉市北部)で勝利し、元の将軍上都驢は降伏した。さらに亦集乃路(内モンゴル自治区アルシャー盟エジン旗東南)で守将の卜顔帖木児を下した。ただし、別方面を担当していた主軍の徐達が敗戦したため、朱元璋軍全体としてはこの作戦は失敗だった。
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