第1次宇都宮城攻城戦とは? わかりやすく解説

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第1次宇都宮城攻城戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:23 UTC 版)

宇都宮城の戦い」の記事における「第1次宇都宮城攻城戦」の解説

土方歳三率い旧幕府別動隊兵数約2,000人)は、蓼沼(現・上三川町蓼沼)の満福寺に陣を置き、19日未明、1,000人余が新政府軍主戦力が配置される街道避け間道通って宇都宮城目指した。 旧幕府軍陣容:約1,000人余指揮官江上太郎土方歳三辰巳三郎相馬左金吾先鋒桑名藩兵:200人 指揮官:辰巳三郎 新撰組30人 指揮官土方歳三 中軍伝習隊歩兵第一大隊700隊長江上太郎 後軍砲兵隊100回天隊50人 指揮官:相馬左金吾 新政府軍陣容:約600人指揮官:香川敬三野洲鎮撫東山道総督府大軍監)、戸田忠恕(前宇都宮藩主)、平川和太郎総督府軍監簗瀬宇都宮藩1番隊:150隊長藤田左京宇都宮藩家老宇都宮藩3番隊:150隊長:安形半兵衛宇都宮城代) 岩村田藩1小隊30人 隊長井上 平松平川和太郎本営 桑島烏山藩2個小隊100隊長大塚孫八朗(烏山藩家老砂田彦根藩3個小隊100篭城宇都宮藩兵隊長戸田三佐衛門宇都宮藩家老午前4時頃、土方らは砂田到達砂田守備する彦根藩小隊急襲した宇都宮城救援軍彦根藩兵ではあったが、先の小山戦いで惨敗し隊長失った記憶から士気上がらず、やがて城内撤退した彦根藩兵を退かせ旧幕府軍は、勢い乗って宇都宮藩主力の1番隊が備え簗瀬背後進撃旧幕府軍の精兵フランス式兵術をもって最新兵器を操るのに対し折から領内一揆鎮圧するため疲弊している宇都宮藩兵は武具旧式火器装備し持たず善戦はしたがやがて宇都宮城内への撤退余儀なくされた。撤退の際、新政府軍側は田川を渡す破壊しなかったため、旧幕府軍は難なく宇都宮城下押し寄せた土方らは道すがら庄屋など豪農の家に火を着けながら進軍折から南東の風で火は宇都宮城下広がった。 昼になると、城下放ったと共に伝習隊第一大隊回天隊城北東側から、桑名藩兵と新撰組城南東側から攻め寄せた土方らは簗瀬橋突破し寺町にも放火したこの際英巌寺庫裏軟禁されていた江戸幕府元老中板倉勝静を救出板倉この後箱館戦争まで旧幕府軍として共に戊辰戦争を戦うこととなる。 寺町家中屋敷焼いた旧幕府軍は、宇都宮城中河原門、下河原門に迫るも、宇都宮藩軍事奉行戸田三左衛門藩老中島九郎らが率い宇都宮城守備隊火器により数名戦死者出し簡単に近寄ることができなかった。回天隊今小路門を攻めていたが、その戦いの中で隊長相馬左金吾宇都宮藩兵の放った銃弾倒れた下河原門付近では壮絶な攻防戦続き宇都宮藩士・藩兵側も十数名が命を落とすこととなった幕府軍新政府軍城南部の竹やぶ挟んで衝突白兵戦となったという。旧幕府軍は三ノ丸藩士邸にも火をつけ、宇都宮城下の火は風にあおられ燃え広がった二ノ丸御殿やその遥か北にある二荒山神社被弾宇都宮城下非戦闘員流れ弾当たって負傷するほどに銃弾飛び交ったといわれる午後2時になっても、兵数兵装ともに劣る新政府軍旧幕府軍を宇都宮城から撤退させることができなかった。宇都宮城北側の峰明神山座し城下町を見下ろす二荒山神社には朝から宇都宮城下戦闘見物する民衆集まったが、昼には旧幕府砲兵最新式山砲着弾するようになり、やがて旧幕府軍が押し寄せ民衆逃げ去った間もなく二荒山神社旧幕府軍に占拠され放火により黒煙満ちたといわれる。また城内火の手衰え見せず、その火煙により城内視界遮られるほどの勢いであったと伝えられている。 この消耗戦最中新政府軍一定の決断下す東山道総督府参謀有馬藤太は、目の前小敵から宇都宮城守りきっても城の北西方面に迫りつつある大鳥本隊会津藩兵、衝鋒隊攻撃から宇都宮城守り切る余力温存できないこのまま兵を消耗してでも城を死守するではなく一度兵を収めて撤退し、既に下野南部まで進軍してきてい東山道総督府救援軍精鋭合流した上で心機一転宇都宮城奪還する戦略執る方が有利と香川進言した。香川はこれを入れ新政府軍宇都宮城出て一旦南方撤退することとなった新政府軍側はまず戸田忠恕宇都宮城から脱出させ、家老藤田左京以下藩士50人がこれに随行した忠恕一行は一旦二荒山神社社家当主である中里千族の元で身支度整えた後、宝木新里北上した後に親戚筋の館林藩秋元礼朝元へ向かったという。次に香川東山道総督府軍が古河向けて出立最後に残った戸田三左衛門や県信輯など宇都宮藩幹部は、二ノ丸御殿火を放ち夕闇紛れて城を離れ古河館林向かった一方旧幕府軍も、夕刻となったため朝から長時間に亘った戦闘収め本陣敷いている蓼沼方面撤退して宿営した。こうして第1次宇都宮城攻城戦は終結したその日宇都宮城下火炎夜通し消えことはなかったという。城内建造物藩校修道館など一部除いてすべて焼失した城下放火され二荒山神社も本殿をはじめ殆どの社殿全焼した二荒山神社宝物社家により城外平野神社移されたため戦火からは逃れた城内には首の無い遺体胴体から落ちた首級数個転がっていたといわれるこの際宇都宮藩兵の戦死者10人で、そのうち1人15歳山本松三郎(山本有三叔父にあたる)であったという。 この日、旧幕府軍が下河原門に迫る際に、戦闘中1人旧幕府兵士がその激しさに耐えられなくなり敵前逃亡図った。これを見た隊長土方はこの兵士斬り捨て退却するものは誰でもこうだ」と言い放ったという。また出陣前の蓼沼満福寺門前では、鬼怒川下ってきた黒羽藩斥候数名旧幕府軍に捕らえられ引き出されていた。この斥候達を土方は自らの刀で斬首したという。こうした土方振る舞いは、旧幕府軍兵士に指揮官への恐怖の念を抱かせ、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}箱館において味方から土方撃たれる遠因となった[要出典]とも言われる宇都宮城旧幕府軍側と交戦し炎上しているの報は鹿沼進軍していた本隊大鳥にももたらされた。行軍中の大鳥らは、東方の空に黒煙立ち上ったのを目撃しており、別動隊宇都宮城攻めたことを当日早い時刻知っていたとも言われる戦闘翌日20日5月12日)、大鳥隊は本隊宇都宮向けて進軍させ、途中新政府軍接触すると無く宇都宮城下入った。これに呼応して土方別動隊宇都宮城向かったもぬけの殻となった宇都宮城入城した旧幕府軍は、焼け残った米蔵から3,000俵、本丸倉庫から金3万両見付けたという。大鳥らは焼失を間逃れた修道館および三の丸家老藩邸本営とし、一方で城内残され糧秣焼け出された庶民にも分け与え城下庶民に乱暴な行いをしないよう兵士たち触れ出している。

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