南方政府から直隷派へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/19 08:15 UTC 版)
1916年(民国5年)8月、国会の回復と共に衆議院議員に復帰し、国会内で旧国民党系の憲政商榷会を結成した。その一方で、梁啓超が組織した旧進歩党系の憲法研究会とも一定の関係を有している。1917年(民国6年)5月、衆議院議長に選出されたが、護法運動の勃発と共に孫文(孫中山)を支持するために広州へ赴き、護法(非常)国会衆議院議長に就任した。翌月には護法軍政府高等顧問に任命されている。 しかし1922年(民国11年)、第1次奉直戦争終結後に北京へ戻り衆議院議長に再任される。以後、南方の政府から離脱し、直隷派の有力政治家となった。翌1923年(民国12年)10月、曹錕の賄選を主導している。1924年10月に北京政変が勃発して曹が失脚すると、呉も指名手配されてしまい天津に逃げ込んでいる。これをもって、呉の政治家としての経歴は事実上終了した。晩年は日本軍や親日政府から参画の勧誘を受けたが、全て拒否している。1944年(民国33年)1月24日、天津市で病没。享年71。
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