南方政府から北京政府へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 21:58 UTC 版)
翌年の二次革命(第二革命)に孫文派として参加したが、敗北して日本に亡命した。1914年(民国3年)5月、雑誌『甲寅』を創刊し、黄興が組織した欧事研究会にも書記として加わっている。1916年(民国5年)5月、護国戦争で護国軍が肇慶軍務院を設立すると、章士釗はその秘書長となる。あわせて両広都司令部秘書長も兼ねた。同年6月、黎元洪が中華民国大総統となると、章は北京に移り、翌年11月に北京大学文科研究院教授兼図書館主任となった。 その後、章士釗は南下して護法運動に加わり、1918年(民国7年)5月、護法軍政府秘書長に就任した。翌年、上海で南北和平会談が開始されると、南方代表の一員に選出されている。1921年(民国10年)春、欧州へ視察に赴き、帰国後の翌年に、北京農業専門学校校長に就任した。 1924年(民国13年)11月、段祺瑞が臨時執政となると、章士釗は司法総長として起用され、翌年4月には、署理教育総長も兼ねた。しかし、学生デモ鎮圧のために北京女子師範大学解散命令を発したことから、各界からの激しい非難を浴びる。9月、事実上辞任して上海へ逃れた(正式な辞任は同年12月)。1928年(民国17年)、国民革命軍が北伐を完了すると、章は北京政府の一員とみなされて指名手配を受けてしまい、欧州へ逃亡した。
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