南方小学校を巡る対立と分村騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:35 UTC 版)
「東俣町 (鹿児島市)」の記事における「南方小学校を巡る対立と分村騒動」の解説
1879年(明治12年)頃には東俣の中央部に東俣小学が設置されていたと記録されており、1885年(明治18年)には川田村にあった川田小学を合併している。1887年(明治20年)に小学校令が施行されたため東俣簡易科小学校となった。その後1892年(明治25年)に厚地簡易科小学校と合併し、大字厚地、大字川田、大字東俣を学区とする南方尋常小学校が3大字のほぼ中央部に設置された。 大正に入り南方小学校は生徒数が増加したため、校舎の増築か敷地の移転を検討する必要が生じた。この際に移転候補地として湯屋原地区が挙げられたが、通学距離が遠くなる大字厚地の北部の岩戸、茄子田の集落が移転の反対に強力に反対し、その結果校区民大会では多様な案が出され収拾がつかななくなったと鹿児島朝日新聞で報道された。また、分立の案も提案され、これに反対する生徒による同盟休校(ストライキ)が発生した。 その後南方と花尾の2校分離案派と南方1校維持増設案派が学区外の村議会議員を巻き込んだ形で対立を極め、1917年(大正6年)に父兄会において投票が行われ1校維持増築案派が多数となり、1校維持増築案派が郡山村長に実行を求めたがこれの処理に窮して辞表を提出するに至った。これに伴って助役が臨時村会で本件の可否を採ったところ、2校分立派が多数となったが以降も両派の対立が激化していき、1校維持増設案派が多くを占める大字東俣は郡山村から分離して隣接する伊敷村への編入することを鹿児島県に申請する事態にまで発展したが、県からは却下された。 最終的には村の有力者であり村会議員であった成尾庄之焏の説得により2校分離とすることになった。1920年(大正9年)に厚地に花尾尋常小学校として新設された。
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