南方戦線に出征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 07:45 UTC 版)
1943年(昭和18年)10月25日、第二次召集が決まり、歩兵第123連隊の小隊長として11月に南方戦線へ出征することになった。蓮田は10月26日、陸軍中尉の軍装と好きな白手袋をし、妻子を連れて宮城前の広場に赴いて皇居を参拝。「皇居を拝してかへるさ」という詩を綴った。 蓮田は妻に玉砂利を拾わせ、3人の子供(晶一13歳、太二7歳、新夫4歳)に形見分けをし、自身も、〈三粒四粒〉の玉砂利を戦地への携帯にした。 妻よ この大前に敷かれたる さゞれ石のうるはしからずや 汝が手に一にぎり 拾ひて われと汝と分たん 汝が手なるは稚子らに分てよ さゞれ石 ああ 大前のさゞれ石 円らかに 静かに ありがたきかな わがいだきもちて 行く 三粒四粒 — 蓮田善明「皇居を拝してかへるさ」 その夜、熊本へ向かう大阪駅の車窓で、伊東静雄が出迎え、黄菊を一枝と詩集『春のいそぎ』を献呈し、万歳二唱し深く敬礼して別れた。その前夜10月25日には、『文藝文化』同人らにより送別会が開かれた。蓮田は三島由紀夫に、「日本のあとのことをおまえに託した」と言い遺した。栗山理一は、蓮田が、「あのアメリカの奴め等が…」と何度も激昂を繰り返し、神風連の歌を吟じては憤り、熱涙を流していたと回想している。 同年12月29日、蓮田はインドネシアのジャワ島のスラバヤにて、佐藤春夫と邂逅し、1冊の歌帖(「をらびうた」)を託した。1944年(昭和19年)1月からは、小スンダ列島のスンバ島へ転進し、約1年3か月駐屯した。その間日本では、3月に蓮田の家族が植木町に帰住。『文藝文化』は、雑誌統合要請のため8月をもって通巻70号で終刊となった。最終号に「をらびうた」が発表された。 蓮田はこの頃スンバ島から、小学校2年の二男・太二と、3歳下の三男・新夫宛てに遺書のような便りを送っている。 新夫君はあひかはらずわるん坊でせうね。兄さんと三人で心をあはせてお母さんを守つて、お父さんがゐなくてもりつぱな人になりなさい。兄弟三人で心と力を合せたらほんとうに強くなれます。四十七士もうち入りの時は三人ぐみになつてたゝかつたさうですよ。お父さんは元気です。家のまはりの林にはお猿さんが一杯ゐます。豚さんも時々歩いてゐます。一メートルばかりの大とかげも。太二君の好きな河馬さんはゐません。さやうなら。 — 蓮田善明「太二・新夫宛ての葉書」(昭和19年8月26日付) 1945年(昭和20年)3月に昭南島(シンガポール)に進出し、蓮田は、新たに編成された迫撃砲兵一個大隊の中隊長に任命された。熊本歩兵第123連隊隊長は、上海から転属した中条豊馬大佐で、蓮田の上司は連隊副官・鳥越春時大尉であった。連隊本部はマレー半島のジョホールバルの王宮に置かれていた。 蓮田らがシンガポールに入港した直後、蓮田の部下が憲兵と大喧嘩をし、怪我を負わせた事件があった。公務執行妨害として、その部下が軍と師団から処罰されようとした時、部下思いの蓮田は、部下の過失は小隊長の自分に責任があると申し出て、鳥越大尉と一緒に連隊長や師団長、憲兵隊長に詫びに行くことで、その部下の処分が取り下げられたこともあった。
※この「南方戦線に出征」の解説は、「蓮田善明」の解説の一部です。
「南方戦線に出征」を含む「蓮田善明」の記事については、「蓮田善明」の概要を参照ください。
- 南方戦線に出征のページへのリンク