南方政府へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/09 05:43 UTC 版)
袁世凱死後の1916年(民国5年)6月、程璧光は、段祺瑞内閣において海軍総長に任命された。府院の争いでは、黎元洪を支持している。翌年5月、黎が段を国務総理から罷免したため、段を支持する督軍団から圧迫を受けるようになると、程は黎に南下して孫文の護法運動に参加するよう促した。しかし黎はこれに応じず、程は南方支持派の艦とともに単独で上海に向かった。その後、7月に正式に護法運動への合流を宣言し、9月、中華民国軍政府において海軍総長に任命された。 孫文らの軍政府においても、孫文派や旧広西派(旧桂系)、雲南派など様々な派閥の争いがあった。程璧光は、いずれの派閥とも一定の関係を有していたため、各派との調停に動くことが多かった。例えば、1918年(民国7年)2月初めには、程は孫文に7総裁による合議制への改組を受け入れるよう進言し、孫文も不承不承とはいえ、その進言に従うことになる。 しかし、改組が実施される前の同年2月26日、程璧光は広州海珠において刺客に狙撃され、胸を撃ち抜かれて即死した。享年58。この刺客は、孫文派の一員であった朱執信により派遣されたものである。朱は旧桂系にも融和的な態度を示す程を猜疑し、暗殺を指示したのであった。しかし孫文は程の死を悼み、海珠公園に程の銅像を建てさせて、これを記念した。北京政府の黎元洪も、後に海軍上将の位を追贈している。また程の死後、孫文派と旧桂系との関係は完全な決裂に至ることになった。
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