江蘇省の統治者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/03 08:48 UTC 版)
「李純 (民国)」の記事における「江蘇省の統治者として」の解説
1917年(民国6年)8月、馮国璋が北京入りして代理大総統に就任すると、李純は江蘇督軍に転じた。護法運動が開始されると、孫文ら南方政府への対策をめぐって、「武力統一」を主張する段祺瑞と「和平統一」を主張する馮との間で対立が発生する。10月、段が湖南省への護法軍政府討伐軍派兵を決定すると、李純は湖北督軍王占元、江西督軍陳光遠とともに、これを停止するよう段に圧力をかけた。これにより、段は南方軍征伐を断念し、国務総理の地位を一時退いた。李・王・陳の3督軍は「長江三督」として国政においても注目を受けるようになり、特に李は、その中の指導的存在と目された。 しかし翌年、段祺瑞の腹心徐樹錚が奉天派の張作霖の支援を獲得し、3月に段が国務総理に復帰した。段は馮国璋に圧力をかけ、「和平統一」路線の堅持を困難とさせた。李純は引き続き「和平統一」路線の提唱を続け、安徽派との対決姿勢をとり続けている。しかし同年10月の馮の任期満了による退任、12月の死去により、李純は後ろ盾を失ってしまう。また、直隷派内部でも、曹錕・呉佩孚が台頭し、李純は江蘇1省の支配権を維持するのがやっととなってしまった。 1920年(民国9年)7月の安直戦争では、李純も当然直隷派として参戦したが、北方の主戦場に向かう余力はなかった。そして直隷派の勝利によっても、李純は自己の影響力を強化できず、孤立を深めるばかりとなってしまう。さらに江蘇省内でも反李純の世論が高まり、省内外の逼迫した情勢に李純は精神的に追い詰められていく。 同年10月12日、李純は南京の督軍署の中で自殺した。享年54(満53歳)。
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