段祺瑞との協調から対立へ
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1914年(民国3年)4月、曹錕は長江上遊警備司令に任命され、湖南省の岳州に移駐した。翌1915年(民国4年)に袁世凱が皇帝即位を図ると、同年9月に曹はいち早く上書して支持を表明し、翌月には「虎威将軍」に任命される。同年12月に蔡鍔らが反袁の護国戦争を起こしたため、翌1916年(民国5年)1月、袁の命を受けた曹は張敬尭・呉佩孚・馮玉祥らを率い四川省で護国軍を迎撃した。ところが護国軍の健闘と世論の反発もあって、5月に袁は皇帝即位の撤回に追い込まれ、6月には病死してしまう。これを受けて曹らも四川から撤退を余儀なくされた。 黎元洪が後任の大総統となった直後の同年9月、曹錕は直隷督軍に任命され、保定に駐留した。黎元洪と国務総理段祺瑞との政争(府院の争い)が勃発すると、曹は両者と一定の関係を保持しつつ中立を維持している。段の国務総理罷免を受け、1917年(民国6年)6月には段派の督軍たちと共に一時「独立」も宣言したが、実際には黎とも裏で連絡を取り合った。張勲復辟では段を支持し、張勲討伐に従事している。 張勲復辟の鎮圧後、失脚した黎元洪の後任として馮国璋が大総統代理に就任、段祺瑞は国務総理に返り咲いた。しかし護法運動を展開する南方政府への対処をめぐり、「武力統一」を唱える段と「和平統一」を唱える馮とで意見が相違し、段の安徽派と馮の直隷派との対立に発展した。曹錕は当初段に接近していたが、後に馮支持に転じ、11月18日には直隷派の長江三督と共に和平統一の主張を電報で発した。 ところが12月になると、段祺瑞の腹心である徐樹錚の調略を受け、曹錕は突然段支持に転じた。これにより直隷派の足並みは乱れ、段祺瑞が主張する武力統一路線が進捗することになる。同月中に曹は南征軍第1路総司令兼両湖宣撫使に任命され、翌1918年(民国7年)2月には漢口に移駐、呉佩孚・馮玉祥・張敬尭らを指揮して南方政府軍を討伐した。呉や馮の活躍で曹は優勢に戦いを進めたが、同年3月、段祺瑞は軍功をあげていない安徽派の張を湖南督軍に任命したため、曹は段への不満を抱くことになる。
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