秦軍から陝西靖国軍、毅軍へとは? わかりやすく解説

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秦軍から陝西靖国軍、毅軍へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:10 UTC 版)

樊鍾秀」の記事における「秦軍から陝西靖国軍、毅軍へ」の解説

1915年民国4年)、陝西省陳樹藩第3混成旅の営長を務めていた閻誥の誘いで、樊鍾秀配下とともに軍に加入し陝西将軍陸建章の衛隊連に改編され、連長、のち営長に任ぜられる。その一方で革命党員の恵又光(中国語版)と反袁逐陸の計画進め、のちに彼が決起失敗する匿う1916年民国5年)、陳樹藩陝西督軍になると混成第2旅(長:曾継賢)騎兵連長、営長に任ぜられ、西安南部駐屯1918年民国7年1月于右任・郭堅(中国語版)・胡景翼らが陝西靖国軍組織すると、陳樹藩より部隊1個営を率いて西安鎮圧命じられる樊鍾秀遅遅鎮圧に向かうふりをして、辛亥革命同志であった張鈁(中国語版)の協力潼関県・商県・雒南県藍田県盩厔県密かに2000人の兵を集め2月陝西靖国軍参加胡景翼軍の営長の義安部隊連携して陳樹藩包囲するも、反撃にあい失敗。張義安戦死し樊鍾秀東三兆鎮に撤退した3月には河南省との省境にある潼関県陳樹藩の1個旅を撃破し数百の銃を鹵獲する。その後秦嶺超えて商県・雒南県部隊休息と整編を行った6月には第2路司令に任ぜられた。陳樹藩を灞上で待ち伏せし劉鎮華口で交戦臨潼渭南転戦し河南省からの両軍補給線絶った。しかし、胡景翼捕虜となると陝西靖国軍瓦解し盩厔県53日間籠城していたが、結局翌年3月陝西省駐屯中の摂陝奉軍司令(奉天派許蘭洲降り第1支隊司令に任ぜられている。 1920年民国9年5月安徽派直隷派との緊張が高まると、樊鍾秀許蘭洲部隊に従って河南に戻る。6月より許蘭洲河南撤退に伴い樊鍾秀部隊直隷派与する毅軍の河南都督趙倜指揮下に入り河南陸軍暫編第1師(長:成慎)第2旅(長:)の第4団団長。西部の閿郷・霊宝陝州一帯駐屯し、対匪賊治安戦従事。暫編第1師は河南新軍29混成協から発展した部隊で、一時2個旅に解体されたものを再合併したものであった。しかし毅軍の勢力優先したい趙倜1921年民国10年1月14日河南陸軍暫編第1師を解散自身の弟の趙傑を部隊長として再編した4月16日趙倜圧力に耐えかねた成慎が反乱を起こすと、鎮圧側に立ち、武安林県に展開。同月、第5混成旅旅長に任ぜられる。7月、湘鄂戦争が起こると蕭耀南の第25師を掩護するため湖南省北部派遣され、同じ直隷派張福来率いる第24配下として趙恒惕湖南軍を威寧岳州撃破する戦後河南省東部各県駐屯したが、趙倜失脚後1922年民国11年7月、毅軍は直隷派によって再編され常徳盛(徳勝・得勝とも)が河南陸軍暫編第1師師長となるとその配下となる。

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