秦軍から陝西靖国軍、毅軍へ
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「樊鍾秀」の記事における「秦軍から陝西靖国軍、毅軍へ」の解説
1915年(民国4年)、陝西省の陳樹藩の第3混成旅の営長を務めていた閻鳳誥の誘いで、樊鍾秀は配下とともに軍に加入し、陝西将軍陸建章の衛隊連に改編され、連長、のち営長に任ぜられる。その一方で、革命党員の恵又光(中国語版)と反袁逐陸の計画を進め、のちに彼が決起に失敗すると匿う。1916年(民国5年)、陳樹藩が陝西督軍になると混成第2旅(長:曾継賢)騎兵連長、営長に任ぜられ、西安南部に駐屯。 1918年(民国7年)1月、于右任・郭堅(中国語版)・胡景翼らが陝西靖国軍を組織すると、陳樹藩より部隊1個営を率いて西安の鎮圧を命じられる。樊鍾秀は遅遅と鎮圧に向かうふりをして、辛亥革命の同志であった張鈁(中国語版)の協力で潼関県・商県・雒南県・藍田県・盩厔県で密かに2000人の兵を集め、2月、陝西靖国軍に参加。胡景翼軍の営長の張義安の部隊と連携して陳樹藩を包囲するも、反撃にあい失敗。張義安は戦死し、樊鍾秀は東三兆鎮に撤退した。3月には河南省との省境にある潼関県で陳樹藩の1個旅を撃破し、数百の銃を鹵獲する。その後、秦嶺を超えて商県・雒南県で部隊の休息と整編を行った。6月には第2路司令に任ぜられた。陳樹藩を灞上で待ち伏せし、劉鎮華と零口で交戦。臨潼・渭南を転戦し、河南省からの両軍の補給線を絶った。しかし、胡景翼が捕虜となると陝西靖国軍は瓦解し、盩厔県で53日間籠城していたが、結局翌年3月、陝西省駐屯中の摂陝奉軍司令(奉天派)許蘭洲に降り、第1支隊司令に任ぜられている。 1920年(民国9年)5月、安徽派と直隷派との緊張が高まると、樊鍾秀は許蘭洲の部隊に従って河南に戻る。6月より許蘭洲の河南撤退に伴い、樊鍾秀の部隊は直隷派に与する毅軍の河南都督趙倜の指揮下に入り、河南陸軍暫編第1師(長:成慎)第2旅(長:林起鵬)の第4団団長。西部の閿郷・霊宝・陝州一帯に駐屯し、対匪賊の治安戦に従事。暫編第1師は河南新軍第29混成協から発展した部隊で、一時2個旅に解体されたものを再合併したものであった。しかし毅軍の勢力を優先したい趙倜は1921年(民国10年)1月14日、河南陸軍暫編第1師を解散、自身の弟の趙傑を部隊長として再編した。4月16日、趙倜の圧力に耐えかねた成慎が反乱を起こすと、鎮圧側に立ち、武安・林県に展開。同月、第5混成旅旅長に任ぜられる。7月、湘鄂戦争が起こると蕭耀南の第25師を掩護するため湖南省北部へ派遣され、同じ直隷派の張福来率いる第24師配下として趙恒惕の湖南軍を威寧・岳州で撃破する。戦後、河南省東部各県に駐屯したが、趙倜失脚後の1922年(民国11年)7月、毅軍は直隷派によって再編され、常徳盛(徳勝・得勝とも)が河南陸軍暫編第1師師長となるとその配下となる。
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