秦郁彦による「据え物斬り」説
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「百人斬り競争」の記事における「秦郁彦による「据え物斬り」説」の解説
千田夏光は、秦郁彦との対談で、「じつは私、「百人斬り」の記事を書いた東京日日新聞の記者から当時の話を少し聞いたことがあります。北海道で毎日新聞をつくったときに社会部長で行かれた方です。あの方は、数の確認はしていません。フィクションとはいいませんが、筆がすべったんだというような意味のことをおっしゃっていました。でもそのことについて、ずっと黙っていらした。もう一人は何もおっしゃらないで、後に中国に移り住みました。」と述べた。これに対し秦は「多少はあったということですね。百人斬りについて、私は通説とはちょっと違う見解なんですよ。これは捕虜の据えもの斬りだったのではないかと推定しています。もちろん百人はオーバーでしょうが、百人斬りをやったとされる二人の少尉のうち、一人は有名になってから母校の小学校で講演して、生徒たちに、あれは捕虜を斬ったんだと話しているんです。それを聞いた人が何人かいるんですよ。捕虜の据えもの斬りなら可能なんです。」と述べた。 秦郁彦は、1991年夏、志々目彰の証言の裏付けをとるために鹿児島師範学校付属小学校の同級生名簿を頼りに問い合わせ、「野田中尉が腰から刀を抜いて据えもの斬りをする恰好を見せてくれたのが印象的だった」という辛島勝一の証言、「実際には捕虜を斬ったのだと言い、彼らは綿服を着ているのでなかなか斬れるものではなかった」と付け加えたという北之園陽徳の証言、野田が全校生徒を前に剣道場で捕虜の据え物斬りの恰好をして見せたのを記憶しており、あとで剣道教師から「とんでもない所行だ」と戒められたという日高誠の証言などを紹介し、「どうやら一般住民はともかく、野田が白兵戦だけでなく、捕虜を並べての据え物斬りをやったと『告白』したのは事実らしい。」と述べた。
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