秦郁彦による済州島現地調査
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「吉田清治 (文筆家)」の記事における「秦郁彦による済州島現地調査」の解説
1992年(平成4年)3月には秦郁彦が吉田の証言について済州島に現地調査に行き、現地図書館で前述の済州新聞の記事を発見したほか、城山浦の老人クラブで5人の老人と話合って、男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかったらしいことを確認したとする。 また秦は、当時、吉田証言のテレビ番組を企画したが、結局番組が制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由を問い合わせたところ、番組担当者が吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田の著作を刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画を中止したとの証言を得た。 ただし、済州島はそもそも1948年に一部左派勢力による蜂起事件が起こり、当時の李承晩政権が反共団体を送りこみ、軍・警察の支援のもと、それらが事実上無差別同然の弾圧と殺戮を繰り返し、28万人いたとされる島民の内、2万数千人~8万人が殺害され、さらにその後も度々弾圧・殺害事件が繰り返されたため、恐怖にかられた島民が次々に島を離れ、一時は島民が3万人弱にまで減ったとも言われている。(済州島四・三事件、済州島事件、四・三事件とも。)秦自身はこの事件について著作中で全く語っておらず、調査当時この事件のことを知っていたかどうかも不明である。 秦は、事件当時4、5か所の貝ボタン工場があり、老人クラブで5人の貝ボタン工場出身者に話を聞いた(吉田証言では貝ボタン工場等を襲ったとされている)としていたが、貝ボタン工場の名を全く記さず、数分の一となった可能性のある人口減の中で、そもそも昔からあった工場なのかどうかを確かめることが出来ない。さらに後の秦の発言では、「貝ボタン工場を訪れ、近くの老人に話を聞いた」と内容が変わっている。 また、済州新聞から済民新聞に移った許栄善記者から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と言われたとするが、そもそも済州新聞では1988年から長らく済州島四・三事件の発掘特集を目玉企画として行い、さらに秦の済州島での調査当時は、関係記者が労働争議で済州新聞を去っていたため、この特集は「済民日報」で続けられていたのだが、秦の著作ではこの事件の存在やその影響について、なんら触れていない状態である。 韓国仁徳大学の講師である言語心理学者 吉方べきによれば、秦郁彦が会ったという許栄善記者はその後会った他の取材者らに「自分は何人かに聞いただけで、これが吉田氏の告白全てを否定する証拠のように扱われるのは不本意」と語ったとされ、さらに「記事が日本で予想外の注目を受け不自由な思いをしたため、これ以上関わりたくない」と吐露したとされる。一方で、遺族会の抗議に従来の見方を引っ込めるしかなかったとの見方も韓国にあることを、吉方は伝えている。吉方によれば、このことで懲りたのか、許栄善からはインタビューに現在応じて貰えないものの、そもそもの記事の4年後の1993年に許栄善が書いた慰安婦狩りについての署名記事では吉田証言を取上げ、そこでは別に否定的に扱っていないという。 秦はこれらの調査を産経新聞 1992年(平成4年)4月30日で発表、産経新聞社の雑誌『正論』(同年6月号)にも掲載され、この論文は「従軍慰安婦たちの春秋(上)」という章タイトルで、文芸春秋発行の雑誌『諸君!』にやはり慰安婦をテーマに掲載された秦の論文を「従軍慰安婦たちの春秋(下)」というタイトルで、セットにして文藝春秋社が出版した『昭和史の謎を追う』(1993年3月)に収録され、菊池寛賞を受賞した。その著書の中で吉田を「詐話師」「ザンゲ屋」扱いにしている。また、秦は吉田の経歴を嘘で固めたライフヒストリーとしているが、その内容を見ると、大学を中退したかどうか、肝腎の労務報告会で動員部長を務めたかどうかというものもあるが、多くは、吉田清治というペンネームが本名でない、養子にした子の名とその行く末が違う、結婚の時期が違う、戦後の経歴で共産党から地方選に出馬したこと等語っていない時期があるといった、問題の本質と関わりがないことを、虚として数え上げて一覧にしている。(厳密にいえば、結婚の時期は、慰安婦狩りの時期にまだ結婚していなければ、その時期に吉田の行動に触れた妻の日記が存在したかどうかにかかわってくるが、吉田自身は後から籍を入れたとし、これは当然考えられることであるが、秦は、その可能性は無視して、この理由だけで妻の日記は当時存在し得ないから、吉田は嘘をついていると主張している。)[独自研究?]今田真人は、自身が裏付け証言が取れなかったというだけで秦が吉田証言をウソと断定する手法、また、自身を棚に上げ他人を詐話師呼ばわりして人格を貶めることで、事実の実際の真偽とは関係なく証言の信憑性をなくそうとする秦の手法を批判している。文芸春秋は、済州島四・三事件は死者数だけでも8万人に達するという説に立つ在日韓国人作家 金石範が済州島四・三事件の全体像を明らかにするという意気込みで書いた小説『火山島』を、その雑誌『文學界』で1981年から1988年にかけて長期連載し、この小説は1984年に大佛次郎賞、1998年に毎日芸術賞をそれぞれ受賞しているが、文芸春秋社も同様に『昭和史の謎を追う』ではこの事件についてまるで存在していなかったかのように全く何も語っていない状態である。[独自研究?] もともと吉田清治は、関係者に迷惑をかけないためとして加害者の名前や肩書については変えてあり、被害者についても慰安婦であったことを取り沙汰されないためとして個人名や具体的な地名についても伏せるとしており、今田は、吉田が済州島については語ったのは、済州島四・三事件での虐殺や島外脱出のために当時の人々は多くが替わっており、済州島の古老は実際には後から移住してきた人ばかりで問題がないからだと、聞いたとしている。実際に、秦が済州島に行ったのも、具体的な日付と地名を出したのが済州島だけだからとしている。 そもそも、これまで済州島の聞取り調査では、四・三事件事件の後遺症よる萎縮に加えて島の恥になることは口にしたくないとの雰囲気が強く、関係者の口が固いとされ、遺族会の梁順任会長によれば、村への割当で徴用された女性はいて、ただし、それを証言してくれるのは、たまたま難を逃れた女性ばかりだという。現地で聞き取り調査を行った者は皆、(秦郁彦のような)よそ者が聞いたからといって簡単に話すわけはないとするという。
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