秦郁彦による済州島現地調査とは? わかりやすく解説

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秦郁彦による済州島現地調査

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 16:41 UTC 版)

吉田清治 (文筆家)」の記事における「秦郁彦による済州島現地調査」の解説

1992年平成4年3月には秦郁彦吉田証言について済州島現地調査行き現地図書館前述済州新聞記事発見したほか、城山浦の老人クラブで5人の老人と話合って男子徴用はあったが慰安婦狩りなかったらしいことを確認したとする。 また秦は、当時吉田証言テレビ番組企画したが、結局番組制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由問い合わせたところ、番組担当者吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田著作刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画中止したとの証言得た。 ただし、済州島そもそも1948年一部左派勢力による蜂起事件起こり当時李承晩政権反共団体送りこみ、軍・警察支援のもと、それらが事実上無差別同然弾圧と殺戮を繰り返し28万人いたとされる島民の内、2万数千人~8万人殺害され、さらにその後も度々弾圧・殺害事件繰り返されたため、恐怖かられた島民次々に島を離れ一時島民が3万人弱にまで減ったとも言われている。(済州島四・三事件済州島事件四・三事件とも。)秦自身はこの事件について著作中で全く語っておらず、調査当時この事件のことを知ってたかどうかも不明である。 秦は、事件当時4、5か所の貝ボタン工場があり、老人クラブで5人の貝ボタン工場出身者に話を聞いた吉田証言では貝ボタン工場等を襲ったとされている)としていたが、貝ボタン工場の名を全く記さず、数分の一となった可能性のある人口減の中で、そもそも昔からあった工場なのかどうか確かめることが出来ない。さらに後の秦の発言では、「貝ボタン工場訪れ近く老人に話を聞いた」と内容変わっているまた、済州新聞から済民新聞移った許栄善記者から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうかと言われたとするが、そもそも済州新聞では1988年から長らく済州島四・三事件発掘特集目玉企画として行い、さらに秦の済州島での調査当時は、関係記者労働争議済州新聞去っていたため、この特集は「済民日報」で続けられていたのだが、秦の著作ではこの事件存在その影響について、なんら触れていない状態である。 韓国仁徳大学講師である言語心理学吉方べきによれば秦郁彦会ったという許栄善記者その後会った他の取材者らに「自分何人かに聞いただけで、これが吉田氏告白全て否定する証拠のように扱われるのは不本意」と語ったとされ、さらに「記事日本予想外注目を受け不自由な思いしたためこれ以上関わりたくない」と吐露しとされる一方で遺族会の抗議従来見方引っ込めるしかなかったとの見方韓国にあることを、吉方伝えている。吉方によれば、このことで懲りたのか、許栄善からはインタビューに現在応じて貰えないものの、そもそもの記事4年後の1993年に許栄善が書いた慰安婦狩りについての署名記事では吉田証言取上げ、そこでは別に否定的に扱っていないという。 秦はこれらの調査産経新聞 1992年平成4年4月30日発表産経新聞社雑誌正論』(同年6月号)にも掲載され、この論文は「従軍慰安婦たちの春秋(上)」という章タイトルで、文芸春秋発行雑誌諸君!』にやはり慰安婦テーマ掲載された秦の論文を「従軍慰安婦たちの春秋(下)」というタイトルで、セットにして文藝春秋社出版した昭和史の謎を追う』(1993年3月)に収録され菊池寛賞受賞した。その著書の中で吉田を「詐話師」「ザンゲ屋」扱いにしている。また、秦は吉田経歴嘘で固めたライフヒストリーとしているが、その内容を見ると、大学中退したかどうか肝腎労務報告会動員部長務めたかどうかというものもあるが、多くは、吉田清治というペンネーム本名でない、養子にした子の名とその行く末が違う、結婚時期が違う、戦後の経歴共産党から地方選出馬したこと等語っていない時期があるといった、問題の本質関わりがないことを、虚として数え上げて一覧にしている。(厳密にいえば結婚時期は、慰安婦狩り時期にまだ結婚してなければその時期に吉田行動触れた妻の日記存在したかどうかかかわってくるが、吉田自身は後から籍を入れたとし、これは当然考えられることであるが、秦は、その可能性無視して、この理由だけで妻の日記当時存在し得ないから、吉田は嘘をついている主張している。)[独自研究?]今田真人は、自身裏付け証言取れなかったというだけで秦が吉田証言ウソ断定する手法また、自身棚に上げ他人詐話師呼ばわりし人格貶めることで、事実実際真偽とは関係なく証言信憑性なくそうとする秦の手法を批判している。文芸春秋は、済州島四・三事件死者数だけでも8万人達するという説に立つ在日韓国人作家 金石範済州島四・三事件全体像明らかにするという意気込み書いた小説火山島』を、その雑誌文學界』で1981年から1988年にかけて長期連載し、この小説1984年大佛次郎賞1998年毎日芸術賞それぞれ受賞しているが、文芸春秋社同様に昭和史の謎を追う』ではこの事件についてまるで存在していなかったかのように全く何も語っていない状態である。[独自研究?] もともと吉田清治は、関係者に迷惑をかけないためとして加害者の名前や肩書については変えてあり、被害者について慰安婦であったことを取り沙汰されないためとして個人名具体的な地名についても伏せるとしており、今田は、吉田済州島については語ったのは、済州島四・三事件での虐殺島外脱出のために当時の人々多く替わっており、済州島古老実際には後から移住してきた人ばかりで問題がないからだと、聞いたとしている。実際に、秦が済州島行ったのも、具体的な日付地名出したのが済州島だけだからとしている。 そもそもこれまで済州島聞取り調査では、四・三事件事件の後遺症よる萎縮加えて島の恥になることは口にしたくないとの雰囲気強く関係者の口が固いとされ、遺族会の梁順任会長によればへの割当徴用された女性はいて、ただし、それを証言してくれるのは、たまたま難を逃れた女性ばかりだという。現地聞き取り調査行った者は皆、(秦郁彦のようなよそ者聞いたからといって簡単に話すわけはないとするという。

※この「秦郁彦による済州島現地調査」の解説は、「吉田清治 (文筆家)」の解説の一部です。
「秦郁彦による済州島現地調査」を含む「吉田清治 (文筆家)」の記事については、「吉田清治 (文筆家)」の概要を参照ください。

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