鎮嵩軍統領
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鞏県神抵村出身。幼年期は私塾で学び、1903年考中秀才。清末の附生で、後に直隷省の保定府法政専門学堂の監獄科で学ぶ。卒業後は河南省法政専門学堂の庶務長(河南開封中州学堂の事務科長とも)をつとめた。1909年、同盟会に加入。 1911年11月 辛亥革命の際には、河南省の視学の身分で豫西(河南省西部)一帯を奔走して、反清活動に参加し、幇会(民間秘密結社)や遊侠の士と交流した。革命派の秦隴復漢軍が成立すると、劉は匪賊3000人余りを集めて民軍を組織し、潼関で趙倜率いる毅軍と交戦。同軍大都督・張鈁(中国語版)率いる東路征討軍に加わる。これにより、大都督府書記官に任命され、さらに参議に昇進して対外交渉事務を担当した。 中華民国成立後、陝西陸軍第一混成旅旅長。しかし、陝西軍政府は軍縮を迫られたため、張鈁により劉の部隊は豫西22県に分散させる事になった。劉鎮華率いる軍は鎮嵩軍を称し、劉はその統領に任命された。鎮嵩軍とは、嵩山の近くを根拠地としたことから命名されたものである。また張鈁の推薦もあって、劉は袁世凱から豫西監察使(後に道尹)兼鎮嵩軍統領に任命された。これにより、劉は豫西に割拠し、勢力を確立することになった。また、革命に協力していた匪賊の張治公(中国語版)、憨玉琨(中国語版)、紫雲升も鎮嵩軍に加え、それぞれ3個路標統に任じた。 1913年(民国2年)二次革命(第二革命)では、劉鎮華は袁世凱を支持した。3月、革命派に与する匪賊・白朗率いる「白狼匪」が河南西部で反乱を起こした。劉は責任を問われ、豫西監察使を更迭させられてしまう。劉は汚名挽回のため、省境の富水関、太平溝一帯で白朗軍を掃討し、黄興の使者・楊体鋭を霊宝県にて暗殺し、黄が張鈁・張鳳翽らにあてた親書を盗んで袁世凱に届け、その信任を得た。さらに1914年8月、張治公率いる1個団を以て中央からの拱衛軍2個団とともに寶豐戰鬥にて追い詰め、ついに白朗を敗死せしめた。劉鎮華は白朗の墓を発き、その首を袁世凱に差し出した。これらの功績により、豫西監察使の職に復帰した。1916年(民国5年)6月に袁が死去して後は、劉は段祺瑞の安徽派に与している。 1917年(民国6年)9月、陝西省の革命派軍人・胡景翼が、孫文の側近于右任を迎え入れ、護法戦争に参加する陝西靖国軍を組織する。これにより胡は、安徽派の陝西督軍・陳樹藩に対抗した。1918年(民国7年)2月、劣勢となった陳は、陝西省長の地位をもって劉鎮華に援軍を打診する。劉は鎮嵩軍を率いて西安に駆けつけ、3月に陝西省長に就任した。鎮嵩軍は段祺瑞が七省から集めた約10万人あまりの援軍「八省聯軍」と連携。鄠県を攻め、靖国軍右翼先鋒の第2遊撃司令・張義安を敗死せしめた。
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