鎮嵩軍統領とは? わかりやすく解説

鎮嵩軍統領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 14:57 UTC 版)

劉鎮華」の記事における「鎮嵩軍統領」の解説

鞏県神抵出身幼年期私塾学び1903年考中秀才清末の附生で、後に直隷省保定府法政専門学堂監獄科で学ぶ。卒業後は河南省法政専門学堂庶務長(河南開封中州学堂事務科長とも)をつとめた1909年同盟会に加入1911年11月 辛亥革命の際には、河南省視学身分で豫西(河南省西部一帯奔走して、反清活動参加し幇会民間秘密結社)や遊侠の士と交流した革命派の秦隴復漢軍が成立すると、劉は匪賊3000余り集めて民軍を組織し潼関趙倜率いる毅軍と交戦。同軍大都督・張鈁(中国語版率い東路征討軍に加わる。これにより、大都督府書記官任命され、さらに参議昇進して対外交渉事務担当した中華民国成立後陝西陸軍第一混成旅旅長。しかし、陝西軍政府軍縮迫られたため、張鈁により劉の部隊は豫西22県に分散させるになった劉鎮華率いる軍は鎮嵩軍を称し、劉はその統領任命された。鎮嵩軍とは、嵩山近く根拠地としたことから命名されたものである。また張鈁の推薦もあって、劉は袁世凱から豫西監察使(後に道尹)兼鎮嵩軍統領に任命された。これにより、劉は豫西に割拠し勢力確立することになったまた、革命協力していた匪賊の張治公(中国語版)、憨玉琨(中国語版)、紫雲升も鎮嵩軍に加えそれぞれ3個路標統に任じた1913年民国2年二次革命第二革命)では、劉鎮華袁世凱支持した3月革命派与する匪賊白朗率いる「白狼匪」が河南西部反乱起こした。劉は責任問われ、豫西監察使を更迭させられてしまう。劉は汚名挽回のため、省境の富水関、太平一帯白朗軍を掃討し、黄興使者・楊体鋭を霊宝県にて暗殺し、黄が張鈁・張鳳翽らにあてた親書盗んで袁世凱届け、その信任得た。さらに1914年8月、張治公率いる1個団を以て中央からの拱衛軍2個団とともに寶豐戰鬥にて追い詰め、ついに白朗敗死せしめた劉鎮華白朗の墓を発き、その首を袁世凱差し出した。これらの功績により、豫西監察使の職に復帰した1916年民国5年6月に袁が死去して後は、劉は段祺瑞安徽派与している。 1917年民国6年9月陝西省革命派軍人胡景翼が、孫文側近于右任迎え入れ護法戦争参加する陝西靖国軍組織する。これにより胡は、安徽派陝西督軍陳樹藩対抗した1918年民国7年2月劣勢となった陳は、陝西省長の地位をもって劉鎮華援軍打診する。劉は鎮嵩軍を率いて西安駆けつけ3月陝西省長に就任した。鎮嵩軍は段祺瑞が七省から集めた10万人あまりの援軍八省聯軍」と連携鄠県攻め靖国右翼先鋒の第2遊撃司令・張義安敗死せしめた

※この「鎮嵩軍統領」の解説は、「劉鎮華」の解説の一部です。
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