胡憨之戦とは? わかりやすく解説

胡憨之戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 21:39 UTC 版)

胡景翼」の記事における「胡憨之戦」の解説

1922年民国11年4月第1次奉直戦争勃発すると、胡景翼馮玉祥随従して河南督軍趙倜戦った戦後、第24師長任命され京漢鉄道北部沿線河南省彰徳湖北省順徳)に駐屯した。 その後、胡は、直隷派主導北京政府反感覚えるようになり、密かに馮玉祥孫岳連携して打倒機会をうかがうようになる第2次奉直戦争勃発後の1924年民国1310月、馮・孫・胡は北京政変首都革命)を発動して北京制圧した国民軍組織されると、胡は国民軍副司令兼第2軍軍長兼同第1師師長就任した。さらに、孫文北京迎え入れることを積極的に推進している。 同年12月胡景翼直隷派呉佩孚撃破し鄭州進軍し河南弁理軍務収束事宜督軍等に相当)に任命された。しかし、陝西督軍鎮嵩軍統領である劉鎮華配下・憨玉琨(中国語版)も、洛陽占拠するなどして、河南省支配目論んで胡を阻もうとした。これにより、いわゆる「胡憨之戦」が勃発したのである馮玉祥当初孫岳派遣して両者和解させようとした。しかし、劉鎮華・憨玉琨の河南支配野心深く1925年民国14年2月には、劉自ら洛陽赴いて胡軍攻撃するなどした。こうして両者全面的に開戦する孫岳率い国民軍第3軍支援受けた胡は、3月9日には劉を洛陽から駆逐し4月2日には憨も撃破し自決追いやった。こうして、胡の河南支配確定したのである勝利した胡景翼は、河南省新政を施き、中国国民党中国共産党など各政治勢力結集させようとした。 しかし、その間にも、1925年民国14年3月12日孫文病死を受け、精神的ショックにより右上腕部の疔疱が悪化していた。病院治療を受けるも回復見込みなく、翌月4月10日開封にて孫文後を追うように急逝した享年34(満32歳)。5月陝西省華山北麓王猛台に葬られる。胡の地位は、辛亥革命以来腹心である岳維峻継いだ1936年民国25年)、生前親交があった馮玉祥于右任、劉覚民らが発起人となり鄭州に「胡公祠」を建立した

※この「胡憨之戦」の解説は、「胡景翼」の解説の一部です。
「胡憨之戦」を含む「胡景翼」の記事については、「胡景翼」の概要を参照ください。

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