胡憨之戦
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1922年(民国11年)4月に第1次奉直戦争が勃発すると、胡景翼は馮玉祥に随従して河南督軍の趙倜と戦った。戦後、第24師師長に任命され、京漢鉄道の北部沿線(河南省彰徳~湖北省順徳)に駐屯した。 その後、胡は、直隷派主導の北京政府に反感を覚えるようになり、密かに馮玉祥や孫岳と連携して、打倒の機会をうかがうようになる。第2次奉直戦争勃発後の1924年(民国13)10月、馮・孫・胡は北京政変(首都革命)を発動して、北京を制圧した。国民軍が組織されると、胡は国民軍副司令兼第2軍軍長兼同第1師師長に就任した。さらに、孫文を北京に迎え入れることを積極的に推進している。 同年12月、胡景翼は直隷派の呉佩孚を撃破して鄭州に進軍し、河南弁理軍務収束事宜(督軍等に相当)に任命された。しかし、陝西督軍・鎮嵩軍統領である劉鎮華の配下・憨玉琨(中国語版)も、洛陽を占拠するなどして、河南省の支配を目論んで胡を阻もうとした。これにより、いわゆる「胡憨之戦」が勃発したのである。 馮玉祥は当初孫岳を派遣して両者を和解させようとした。しかし、劉鎮華・憨玉琨の河南支配の野心は深く、1925年(民国14年)2月には、劉自ら洛陽に赴いて胡軍を攻撃するなどした。こうして両者は全面的に開戦する。孫岳率いる国民軍第3軍の支援も受けた胡は、3月9日には劉を洛陽から駆逐し、4月2日には憨も撃破して自決に追いやった。こうして、胡の河南支配は確定したのである。勝利した胡景翼は、河南省で新政を施き、中国国民党や中国共産党など各政治勢力を結集させようとした。 しかし、その間にも、1925年(民国14年)3月12日の孫文の病死を受け、精神的ショックにより右上腕部の疔疱が悪化していた。病院で治療を受けるも回復の見込みなく、翌月の4月10日、開封にて孫文の後を追うように急逝した。享年34(満32歳)。5月に陝西省華山北麓の王猛台に葬られる。胡の地位は、辛亥革命以来の腹心である岳維峻が継いだ。 1936年(民国25年)、生前親交があった馮玉祥、于右任、劉覚民らが発起人となり鄭州に「胡公祠」を建立した。
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