胡の死去と第2次天安門事件
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「胡耀邦」の記事における「胡の死去と第2次天安門事件」の解説
1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去した。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していった。五・四運動の70周年記念日にあたる5月4日には北京の学生・市民10万人がデモと集会を行い、第二次天安門事件へと発展した。ここで趙紫陽総書記も学生運動に同情的な発言を行ったことで、鄧小平ら長老の鎮圧路線を妨害するものとされて失脚した。 胡耀邦は人民服ではなくて西側の背広を真っ先に着込み、フォークとナイフを使う、合理的なことは何でも取り入れる開明的な指導者であったが、それが長老左派の批判を受け、失脚につながった。 胡耀邦の墓は中国首脳の指定墓地である北京・八宝山公墓ではなく、江西省の共青城にある。ここは1950年代初期、中国共産主義青年団(共青団)メンバーが開墾に参加し、その後胡も3度訪問したことから、共青城市という新たな市ができた。そして李昭夫人の希望により、胡の墓がここに建てられた。 2005年11月18日、党中央は胡耀邦生誕90周年の座談会を開き、温家宝、曽慶紅、呉官正らが出席した。当初は胡錦濤総書記が出席し発言する予定だったが、江沢民元総書記の反対により出席は見送られた。ロイター通信によれば、温家宝も「もし胡耀邦を記念するなら、趙紫陽はどうするのか、六四(第二次天安門事件)はどうするのか」と発言したという。 温家宝首相は、第二次天安門事件のきっかけにもなった胡耀邦を「師」と仰いでいる。2010年4月15日、温家宝は人民日報に胡耀邦を偲ぶ回想記を発表した。「胡氏が現場の状況を理解しようとしていたことは明白であり、『(指導者は)民衆の苦しみを子細に観察し、直接の資料を把握しなければならない』という胡氏の言葉が耳に残る」「清廉潔白で親しみやすかった姿が今でも懐かしさとともに思い浮かぶ」とした。温家宝は胡耀邦の死去の際に、入院先に真っ先に駆けつけたという。また、温家宝は毎年旧正月の時期になると胡耀邦の居宅を訪問し、胡耀邦の肖像画を見ることで仕事の原動力になる、と語った。
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